在宅介護の失敗をはげしく後悔する・・・「自分で考え、自分で決める」自由を奪っていた。

   

特別養護老人ホームに入居している

私の母のところへは週に2回ほど面会に行っています。

もはや自分で立ち上がることもできず、

私のことも誰だかわからず、

たまにこちらの呼びかけにこたえて

ボソッとなにかを言うこともあるけれどコミュニケーションは不可能・・・

ということで、会うたびに

「ついにここまで来てしまったか・・・」

という悲しい気持ちになるのですが、

ほかの入居者さんにはとても元気な人もいらっしゃり、

元気でうらやましいなあと思うことも多いです。

定期的にコンビニが出張販売をしに来る

先日面会に行ったところ、

近所のコンビニが出張販売に来ていました。

どれくらいの頻度か知りませんが、

定期的に出張してきて

お菓子やパンなどを売っているようです。

職員さんもお昼のお弁当などで利用しているようです。

 

これに遭遇することはこれまでにも何度かあったのですが、

今回はちょうど数人のお年寄り(入居者なのかそれともショートステイの利用者なのか不明)

が買い物に来ていて、

自分で欲しいものを選んでいました(支払いはツケで、施設利用料金をいっしょに請求される)。

これがとても楽しそうで印象的でした。

 

で、エレベーターで、自分が選んだパン(お菓子?)を手に持った車いすのお年寄りと

一緒になったのですが、

付き添っていた介護士さんが「○○さんはそれ好きだもんねえ。食べるの楽しみですねえ~」

なんて話しかけると、お年寄りはそれはもう嬉しそうな表情をうかべていました。

 

なにがそんなに楽しくて嬉しかったのか。

それは、自分の好きなものを食べるのが楽しみ、というのももちろんでしょうが、

「買い物」という行動が内包する

「自分で考え、自分で選ぶ」

ということ自体が、本質的に楽しいことというか魅力のあることなんだろうな、と。

「自分で考え自分で選択する」ほうが活発に生きられる?

そういえば

「選択権を与えられた老人と選択権を与えられなかった老人とでは幸福感や寿命が違う」

という話をどこかで読んだなあ・・・

と思ったのですがなかなか思い出せず。

うちに帰って本棚を見回してみてやっと思い出しました。


amazon.co.jp マンガで分かる心療内科 4 (ヤングキングコミックス)

これによると、

ランガーとロウディンという心理学者が

ある老人ホームでお年寄りを2つのグループに分け、

片方のグループ(Aグループ)には

レクリエーションの内容など、日常生活で積極的に選択権を与えた。

もう片方(Bグループ)には

あまり選択権を与えず、介護する側がなんでも決めちゃった。

 

すると1年後、

Aグループのお年寄りたちのほとんどは活発性や積極性や幸福感がアップしたのに、

Bグループではその傾向がみられたお年寄りは2割程度しかいなかった。

それだけでなく、1年半後にはBグループの30%が亡くなったのに対して、

Aグループでは15%しか亡くなっていなかった・・・

という話でした。


amazon.co.jp ハーバード大学教授が語る「老い」に負けない生き方

↑あらためて調べてみるとこちらの書籍に詳しいことが述べられているようで、ぜひとも読んでみたい・・と思ったのですが高くて手が出ない。安く手に入る機会があれば読んで、記事にしようと思います。

 

 

活発性とか積極性とかどうやって数値化したんだろう、とか、

死亡率は偶然もあるんじゃないの、とかいう

疑問もわいてきますが、

楽しそうに買い物をしていたお年寄りの表情を思い出すと、

ああ、これはたしかにその通りなんだろうな・・・と感じました。

認知症で適切な判断ができないんだから・・・と、本人の選択権を奪ってしまっていた?

しかし・・・

私が母を在宅で介護していたころを思い返してみると、

母に「自分で考えて決めさせる」

ということはあまりさせていなかった、

その自由を奪ってしまっていた、というところはけっこうあったなあ・・と、

はげしく後悔の念が沸き上がってきます。

 

いや、まだ元気なころは

一緒に買い物に行って

「おかあさん、これとこれ、どっちがイイ?」

というようなことは訊いていたかな。

洋服を買いに行った時もいちおうそういう会話はしていた記憶も。

 

しかし認知症がすすむにつれ、

「訊いたところで選べない、答えられない」

ということばかりになり、

だんだんにそんなことは訊かなくなっていったと思います。

 

ひとりで出かけることがまだできていた頃には

小銭入れ(大金を持たせるとなくすと大変なので小銭だけ)

をもたせて出かけさせて、途中の八百屋とかで好きなものを買って帰ってくる・・・

ということもありましたが、

だんだんすぐにおカネを無くしたりするようになって、

おカネを持たせることもなくなり、

ひとりで出かけさせることも

徘徊するようになってからはやめました。

 

やがて、食べるものも着るものもその日の行動もトイレの時間も私が決めるように。

そして、そのとおりに行動させることに私は一生懸命になり、

そのとおりにならないとイライラして怒ってしまう・・・

ということばかりになりました。

これでは母も生きていてつまらなかったでしょうね。

しかしそのときは歩けない亡父の介護も私がやっている状況で、

そんなことを思いやる余裕は私にはありませんでした。

 

決めさせようとしたって本人には選ぶ能力がないし、

本人の自由にさせていたら身体の危険も生じるかもしれない・・・

と思って、私は母をコントロールしようとしていました。

 

たとえば、まだ要介護1で自宅で生活し、

まだ元気に歩けるし食事や排泄は自分でできるものの

激しい物忘れがあって私が振り回されていたころ。

週に2~3回、デイサービスに通っていたのですが、

ヘタに「今日はデイサービスに行くんだよ」とか言っちゃうと、

「えっ?じゃあ、準備しなきゃ!!」と

着るものをタンスから手当たり次第に引っ張り出しては忘れ、

思い出すとまた手当たり次第に散らかして・・・を繰り返してしまう。

また、財布がない財布がない、と言い出し、

財布を探してそこらじゅうを散らかしまくる・・・

ということになってしまうので、

私は次のような作戦をとり、デイサービスに送り出していました。

 

お迎えが来る10分前くらいになったら、

いきなり「今日はデイサービスだよ!」と伝える。

「時間がないから!俺が洋服を用意したから!これに着替えて!!」

と、前もって用意しておいた服に着替えさせる。本人に選ぶ余地を与えない。

「財布?ハイこれ!。ハンカチ?ハイこれ!。ああ~もう時間がないから!!もう出かけるよ!!」

とあわてて家から連れ出す・・・。

 

このようにしないとあっちこっちをごちゃごちゃ散らかしてしまい、

結果として必要なものを私が見つけ出すことができないということになるため、

このように「本人に選ばせない、考えさせない」ようにしていたのです。

当時はこうするしかないと思っていました。

なにしろ父も具合が悪かったので、

物事を滞りなくスムーズに運ぶことを最優先に考えていました。

 

しかしいまふりかえってみると、

「そうするしかなかった」と思うと同時に、

「ほんとうにそうするしかなかったのか?」という疑問もわいてきます。

 

認知症だからって本人の自由を過剰に奪っていなかったか。

もう少し、母に「自分で決め」てもらおうと、

そのために時間と手間をかけるべきだったんじゃないのか。

母が洋服を選ぶために、あちこちをめちゃめちゃに散らかしたところで、

そんなことは気にしなければいいだけのことではなかったか。

 

お買い物をして満面の笑みをうかべていた

あのお年寄りのように、

少しでも母に楽しく生活してもらうためには

どうするべきだったのか?

それを考える余裕も能力もなかったことが、

いまとなっては悔やまれてなりません。

 

こんな感じで、

在宅介護でうまくいかなかったことや、

あれは失敗だった・・ということを思い出して

ものすごく後悔することばかり。

後悔して「これからはこうしてあげよう」と思っても

時すでに遅し・・・ということばかり。

 

私のように後悔ばかりの介護にならないよう、

いま在宅介護を頑張られている方に

少しでもお役に立てる記事をつくるべく、

もっと勉強したいと思っています。

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