このあいだの記事
→全パチンカーは「設定付きパチンコ」を全力で拒否せよ!! 前編
の続きです。
勝ちを目指すパチンカーにとって、「設定付きパチンコ」はまったくメリットがない・・・
ということを書きましたが、
今回は、楽しむという側面においても「設定付きパチンコ」はゴミカス同然だ・・
ということを主張していきたい。
パチンコは、いったいなにが面白い(面白かった)のかを再確認したい
私は、パチンコは世界に誇るべき超絶面白いゲーム、ギャンブルである・・・
と常々主張しています。
いや、正確には「超絶面白いゲーム、ギャンブル『だった』」と言うべきか。
昔(90年代前半)ラスベガスに行ったときに一晩遊んだカジノが猛烈につまらなかったことを思い出すと、
(こちらでちょっと書いています→読売新聞の社説に、カジノをめぐる議論のナンセンスさをみた)
やっぱりパチンコ・パチスロって面白いんだな~と思うのですよ。
アメリカのカジノスロットみたいに、ただお金を入れてレバーを引っ張って勝手に出目が止まるスロットなんて、なにがおもしれえんだよ・・・と心底思いました。
比べて、日本の「パチスロ」は自分で狙ったところを止めようとすることによる攻略感、
リーチ目や告知演出によって入りを察知したときの喜び、リーチ目を探求する楽しさ、
液晶演出と出目演出の絡み・・・など、
(いまのカジノスロットはどうなのか知らないけど、少なくとも当時は)
日本のパチスロのほうが圧倒的に優れている、と感じました。
で、パチンコのほうはなにが面白いのか、なにが魅力なのか、を考えてみると、
それはやっぱり、予測不能、変幻自在の動きをする「玉」の存在が最大のポイントだと思うのです。
自分の思い通りにならない銀玉の動きを、なんとかコントロールして自分の狙ったところへ入れたい。
そのために、少しでも釘が開いている台をさがし、
自分が「これだ」という台をみつけたなら、
ストロークを調整したり、打ち出すタイミングを考えたり、
さまざまな試行錯誤をくりかえし、玉の動きに一喜一憂する・・・
もし全然入らなければ、こっちの台はどうなのかな?と別の台を試し、
さっきの台との違いを感じようとまた玉の動きを観察してみる・・・
これが、パチンコというゲームの本来の姿ですよね。
つまり、狙ったところに玉を入れ、結果として玉を増やすゲーム。
ただ液晶デジタルでマンガが展開されるのが面白い、というだけなら
ただのテレビゲームなわけで、玉を弾き玉が跳ねるのを眺めているのが
面白い・・・というのがパチンコの本質的な面白さ。
マルホンの一発台「天龍インフィニティ」で3段目に玉が突入し、
ユラユラ回っているときのドキドキ。
このアツさには、液晶でのどんなリーチ演出でも敵わない。
それは、液晶リーチ演出は実はリーチ中にはすでに当たるか当たらないか決まっていて、
告知を先延ばしにして焦らしているだけにすぎない(だから、ハズレると腹が立つ)
のに対し、天龍の場合は、ユラユラしている間にはまだどうなるか決まっていないから、なのでしょう。
だから、「激アツ」って言われたり、キリン柄が出現したり、「絶唱だあ~」とか言われたりしても、
基本的には「なんでもいいからはやくしろよ。時間がもったいないよ」としか思わないのです。
どうせすでに決まっているんだから。
しかし、銀玉の行方は、最後までどう転ぶかわからない。
↑これは「CR RAIZINMAN」。まさに激アツ!これぞパチンコの醍醐味!
このように、銀玉の予測不能な動きを追ってこそパチンコは面白いのです。
液晶や役物の技術が進化しつづけ、そっちばっかりが一生懸命つくりこまれるようになって久しく、
こういうプリミティヴな楽しみが軽視されている傾向が顕著ですが、
「設定付きパチンコ」はそういったパチンコ本来の楽しみをさらに矮小化していく・・・と思うのです。
ひたすら液晶をみつめていることを要求する「ヴァルヴレイヴ」
パチンコで玉を増やしたいと思ったら、
スタートチャッカーやチューリップに玉を入れることを考えながら打たなくてはならない、
というのが本来の姿。
釘がどうなっているかを吟味し、
銀玉の動きを観察しながら、
どのようなストロークが最適かをさぐりながら打つ。
なのでほんとうは、打っている間は液晶演出なんぞをみているヒマなどはないのです。
しかし今度出た設定付きパチンコ「Pフィーバ革命機ヴァルヴレイヴ」。
いちおう釘調整は可能なようですが、
釘調整をせずに設定で出玉調整をする、というのが前提なはずなので、
基本的にはどの台でも釘は同じ、と考えるなら、
釘を吟味する必要などないわけですよね。
ここでまずひとつ、パチンコの本来の楽しみが奪われちゃう
(釘調整が実は違法、などという話は、プレイヤー側がガタガタ言う問題ではないと思うので、ここでは置いておきます)。
そして、プレイ中は(釘はどれを打っても同じ、なのが前提なので)、
もっぱら液晶の動きに集中することになります。
設定付きの場合は出玉をたくさん獲得するために重要なのは釘よりも設定であるので、
その設定を示唆してくれるかもしれない液晶演出の内容をみていなければならない。
で、銀玉の行方ではなく、クソみたいな設定示唆演出に一喜一憂しながらプレイすることになるわけです。
そんなんでパチンコといえるんでしょうか。
ただのテレビゲームじゃないのか。
それではまさに「遊技」ではなくただのギャンブルでしょう。
釘調整を否定し、設定付きのパチンコが広まることは、
パチンコの「遊技」という部分をますます薄め、
パチンコをただの子供だましのテレビゲーム、
運否天賦だけのギャンブル、に貶めてしまう・・・と思うのです。
そういうわけで、全パチンカーは全力で
「設定付きパチンコ」を無視するべきです。
釘調整ができないという「封入式」も同じ。
そうしたらパチンコを打てなくなるかもしれませんが、
釘が全部同じパチンコなどパチンコと呼べるものではない別物
(それなら、釘と玉を使う必要はないのでは)なので、
そんなものは打つ価値はないし、
もっと面白いものがほかにたくさんあるわけで
ムリしてそんなゴミみたいなものをおカネを払って打つ必要はない。
それで私もパチンコをやめるかもしれないし、
ぱちんこ業界も終わるかもしれませんが、
それはそれでやむをえないでしょう。
しかしそうならないためには、とりあえず
「ヴァルヴレイヴ」みたいなハナクソ台にはNO!と意思表示をするべきです。
そうすれば、業界も「これではダメだ」となり、
もっと違った動きが生まれてくるかもしれない・・
というのは甘いですかね。