本ページのリンクには広告が含まれています 認知症の進行をふりかえってみる 認知症を予防するために

「脳トレ」に認知症予防効果はあるか

このブログでは折に触れ「認知症になることを予防するには?」ということを書いてきました。

といっても、私自身は医師でもなんでもないので、その問いについての答えを切実に求めておられる方に役立つようなことはなにひとつ書けない。ただ、「勉強して知ったこと」と「経験したこと」と「思っていること」を書くだけです。

で、母の物忘れに振り回されていたころや、このブログを始めたころは、「認知症の進行を抑えるには?」「認知症にならないためには?」ということばかりを考えていました。しかしいろいろ学ぶうちにだいぶ考え方が変わってきまして、

「認知症になる最大のリスクは『加齢』なのだから、大事なのは『予防』することよりも、いつか襲ってくるそれに対してどう対処するか、を準備しておくこと」なのではないか、と思うようになってきました。

でも、母の認知症が進んで、「なんとかできないのか!」という焦りばかりだったころはそんな気持ちにはなれなかった。なんでもとりあえず試してみよう、というやけくそな気持ちに。「脳トレ」も、そんななかで試してみたもののひとつ。

もっと脳を使えば脳が鍛えられて認知機能の低下を抑えられるのではないか?と考えた

まだ母が元気で歩けて、自宅でめんどうをみていたころ。父も病気がちではあったものの自宅で過ごしていました。

とりあえず父もいたので、まだ母の認知機能の低下はゆるやかでしたが、徐々に物忘れが激しくなり、徘徊など周辺症状も徐々に出てきた母に対して、私は「なんとかして認知機能を現状維持もしくは向上させる方法はないのか」と考えていました。

 

そのなかでよくやっていたのが、いわゆる「脳トレ」。

そのころは認知症に対しての知識も理解も今よりもさらに不足していましたから、「アタマを使わないから衰えるんだろ」と思っていたのですよ。いま考えれば、アタマを使わせようとするならたとえ失敗しても家事をいっぱいやらせたり、いろんなところに連れて行って人と触れ合わせることを考えるべきだったのですが、そのときは「脳トレ」を選択した。

というのは、「脳トレ」をやっていてもらえれば、とりあえずテーブルの前に座っておとなしくしていてもらえるからです。

当時は父もほとんど動けず、父の世話もすべての家事も私がやっていましたから、忙しくて余裕がなかった私は、とにかく母におとなしくしていてもらいたかったのです。なにかをしているあいだに母が勝手に家を出てどこかへ行っちゃいそうに・・なんてこともしょっちゅうあり、もうストレスで血圧爆上がり。俺のほうが親たちより先に死ぬかも・・と思っていました。

そんななか、母に「脳トレ」をさせておくと、けっこうおとなしく「脳トレ」に集中してくれて、じっとしていてくれる、ということがわかったのです。

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↑最も使ったのが川島隆太氏(東北大学教授)のこのシリーズ。ものすごくカンタンな計算がずら~っと並んでいます。

私の母は、父が営んでいた小さな事業の経理を担当し、そのソロバン捌きはこどもの私から見ても相当なものでしたから、数字にはけっこう強かった。だからなのか、物忘れが猛烈に激しかったこのころでも、小学校低学年レベルの計算なら難なくこなしていました。

そして、どうやらスラスラ解けるのが楽しいらしく、信じられないくらい集中して取り組む。それをやっている間は母から目を離すことができるので、そのあいだに私はいろいろな仕事をすませるようにしていました。

だんだんできなくなっていく

しかしそれも、だんだんにできなくなっていきました。ここは子どもと違うところで、子どもならやればやるほど能力が向上していくけれど、認知症の人の場合は「向上」というのはほとんど期待できない。

割り算ができなくなり、掛け算ができなくなり、引き算もできなくなり・・といったかんじで徐々に難しいことができなくなる。

それにも波があって、できる時とできない時があったりするので、私は少し難しくなってきたと思われる計算も「これはトレーニングだから。がんばってやってみてよ」といってやらせていましたが、これがじつはあまり良くなかったんだな。

できなくなってきたんなら、それにあわせてもっとカンタンなものを用意するべきだったのですが、このときはそれがわからなかった。

「あれえ?こないだはできてたのに。今日はどうしてできないの?」って言っちゃったりとか、間違ったところを「いやいや、これはそうじゃくて・・・」とか教えようとしてしまったり。そういうことはしてはいけなかった。だんだんできなくなるのはもう必然なのだから、できるものだけを用意し、できたら褒めてあげて、「できてキモチいい」という感覚を味わってもらうことが大事だったのです。

できないことをやってもらっても、「ああ、私はもうこの程度もできないんだ」という気持ちにさせるだけ。「練習によってできるようになる」ということは期待できないのに、私はそれを理解していなかった。

 

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↑同じ川島教授のこちらの本が非常に参考になります。古いので「痴呆」という言葉が使われていますが、内容はいまでも通用するものでしょう。

 

「スラスラ解ける」うちはものすごく集中して取り組んでいた母も、だんだんにやりたがらなくなり、説得して机の前に座らせても10秒でフラフラ立ち上がってしまうようになりました。

そうこうしているうちに父が寝たきりになり、しばらくのちに亡くなって、するともう脳トレどころではないという勢いで認知機能の低下が激しく進んでいきました。

このへんを考えてみると、「脳トレ」をやったところで認知機能の低下防止には目立った効果はないし、あったとしても「配偶者の死」という強烈なストレスの前にはそんなものは吹っ飛んでしまうくらいのもの・・とも思えるのですが、しかし計算ドリルを夢中になってやっていた母の様子を思い出すと、けっして無意味ではなかったとも思います。

本人が楽しめて心が落ち着くなら、その意味では有効だと思う

「脳トレ」に関しては、認知症に対しての効果はあるともないともいろいろな言説を見受けます(結局のところ「運動」と「人と接する」ことが最も効果的な認知症予防・・というのが最近はよく言われていますね)。

しかし、若いころに頭が破裂するほど勉強して官僚や政治家になった人だって認知症になったりするわけですからね。そんなに単純なら誰も苦労しない、

私は「脳トレ」をするだけでは認知症予防につながることはあまり期待できないと思っていますが、本人が楽しんでで取り組む分には意味があることなんだろうな、と。

逆に、どれだけ「認知症予防に効果的」とされているものであっても、本人がいやいややらされていたり、楽しくないと思っていればそれは意味がないんだろうなと思います。

そうであるなら、認知症を発症してしまった家族がいるなら、認知機能低下はある程度は必然のことと受け入れて、本人が自尊心をもちつつ楽しく過ごせるように考えることが正しいのでしょう。

私のように「アタマ悪くなっちゃうからもっとアタマ使わせよう!」といろいろ難しいことをやらせようとしたり、私の父がそうしたように次から次へと薬を増やそうと考えたりするのは間違っていた。どうすれば本人が気持ちよく過ごせるか・・本人が楽しいなら脳トレもいいし、たとえまともにできなくても料理だの掃除だのもどんどんやらせてあげるべきでした。

そのへんを理解したのが、母がなにもわからなくなってからだったのが痛恨の極み。そうならないよう、「認知症?そんなもの関係ない」と思っているうちにいろいろ学んでおいたほうがいいでしょう・・とだけは言っておきます。

「脳トレ」についてはもっと勉強してまた書きたいと思います。

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