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人生の最期まで元気に生きるためにはなにが必要なのか

ぱちんこにはまったく関係ない話です。

 

1966年に現在の静岡県清水市で起こった、みそ製造会社専務一家4人を殺害し金品を奪って放火した強盗殺人放火事件、いわゆる「袴田事件」。

その事件で犯人とされ死刑を言い渡され、以来48年も死刑囚として拘禁され、2014年に再審開始決定が出て釈放されたあとも検察の悪あがきによって10年間も「法的に不安定」な立場に立たされた袴田巌さん。先日静岡地裁が再審で無罪を言い渡し、検察が控訴を断念。袴田さんの無罪が確定することになりました。

ありとあらゆる権力は信用できないし信用してはいけないと考えている私は、権力の犯罪には敏感でありたいと思って司法制度についてはいろいろ勉強し、もちろんこの事件についても注視していて、たしかここにも何度か書いたと思うんですが、いやあ無罪が確定してよかった。袴田さんがなめさせられた想像を絶する辛苦に思いをはせれば、「おめでとう」などという言葉は出てきませんが、とにかくよかった。

袴田さんはよかったけれど、現在の死刑確定囚のなかにも冤罪が疑われる、もしくはあまりにぜい弱な証拠しかないのに死刑確定された人とかたくさんいますしね、そういう事件についても「ほんとうに間違いないのか?」という議論が沸き起こってほしい。

和歌山カレー事件なんかは証拠も動機も自白もないのに「お前しか怪しい奴が見当たらないから」っていうだけで死刑ですからね。伊東市の干物店強殺だって直接証拠なしで、ほかに怪しい人を見たという目撃証言もあったのにそれは無視で「お前が犯人と考えて矛盾がないから」というだけで死刑。日本の刑事裁判は中国とたいして変わらない。カルロス・ゴーンが「公平な裁判を受けられない」とぬかして逃げたのも、許せないがその気持ちはわかる。

とにかく、状況証拠しかないとか、自白しか証拠がないとか、そういうのはもう国民が「それじゃあ有罪にできねえだろ、もっと頑張って証拠さがすか、なかったら釈放しろや」というふうに声をあげるように意識を変えていかないと、こういう冤罪はまだまだ起こる。これを機会に司法制度の抜本的な改革をお願いしたいけれど、そんな大仕事をやってくれるような立派な政治家がどこにも見当たらないのが悲しい。

私は時代劇大好きなんですが、時代劇では誰かが冤罪に陥れられる話はしょっちゅうで、たとえば「現場にお前の印籠が落ちていた(ワルが盗んで落としておいただけ)。目撃証言(ワルが仕込んだウソの目撃者)もある!」とかで犯人にされ、拷問を受けて自白してしまうとか。もしくは、奉行所のワルが誰かの家にガサ入れに入って、タンスとかに証拠物件をひそかに突っ込んで「あったぞ!」といかにもそこに最初からあったかのように言って、その家の人を犯人に仕立て上げる、とか。

これをテレビで見ているだけなら「そんなバカな」「このワルむかつく!」とか言って楽しめばいいわけなんですが、恐ろしいのは上に書いた時代劇というフィクションのなかのこととまったく同じことが「袴田事件」では行われていたということ。それも、時代劇と同じレベルの、誰がどう考えても「いやいやいやおかしいだろ」という稚拙なやり方で。

袴田さんの件は昭和の大昔の話で今はそんなことありえない、とかいう人もいるようですが、たった十数年前には大阪地検特捜部の主任検事が証拠を改ざんして逮捕され実刑判決を受けている。みんなもう忘れましたか。自分の立場やプライドのためには平気でそんなことをする奴らが人に死刑だの無期懲役だのを要求している。この状況でも「死刑なんてとんでもない」という雰囲気になっていかないのはどうしてなのだろう。自分や自分の家族が袴田さんみたいな目に遭ってみないとわからないということなのか。

 

それから、状況証拠しかない事件は冤罪の危険があるから死刑はダメ、でもたとえばDNAが完全一致したりといった確実な証拠があれば死刑もOK、とかいう意見もあるみたいなんですが、いやいやいやそれはダメだと思うなあ。足利事件だって最初はDNAが一致!って言ってたでしょ。今回の袴田さんの件だって、検察がゆるぎない証拠として出してきた物証は捏造だった。

それに、そもそも死刑の問題点は「冤罪の可能性」云々だけではないので、死刑の存廃と冤罪の可能性は別の話であるとか、直接証拠があれば死刑やってもいいけど状況証拠しかない場合はダメ、なんてのはどう考えても不十分というか、本質からは外れているというか、死刑を肯定したいからムリヤリ引っ張り出した理屈のように思える。

「冤罪の可能性」という一点だけを考えてみても、それを完璧に防ぐことは(現在の日本の制度下でならなおさら)不可能なので、「死刑は必要。だから冤罪をなくそう」ではなく、「死刑が必要だとしても、冤罪をなくすのは無理。しかたがないから死刑をやめよう」というふうになってくれないものだろうか。まあ現在の日本は弁護士ですら死刑賛成とか公言しちゃう有様ですから、そうなるには100年くらいかかるでしょうが、「死刑が必要」ってのはそもそも本当か、ってところから見直していこう、という方向に進んでほしい、と切に願います。「必要」なのではなく、ただ単に情緒的に「極悪人が生きてるのは許せないからあったほうがいい」と思う、というだけなのでは? ただ単に権力者にとって「必要」というだけなのでは?

いずれにしても、確定死刑囚が再審で無罪になったのはこれで戦後5件目。昔の捜査機関の捜査の杜撰さ加減と、1950年代くらいまでは毎年何十人も死刑執行されていたことを考えると、無実なのに執行された人も相当数いたであろうことは想像に難くない。そして今の確定死刑囚にも冤罪が疑われる人がほかにもいる。それを考えると「死刑は存置!冤罪はなくせばいい!」とか言ってる場合じゃない、なにはなくともまずは死刑を廃止しなくては・・・っていう流れになってしかるべきだと思うんだけど。

袴田さんの姉、ひで子さんの強さに感嘆する

死刑については無限に言いたいことがありますが、今回の記事の本題はそこではないのでこのへんでやめておきます。

袴田さんの件では非常に重いいろんなことを考えさせられたけれど、そのなかでちょっと気になっていたのが、袴田さんの姉のひで子さんの、91歳とは思えない、あまりに強靭な精神と、元気な立ち振る舞い。この人のカラダには老化というシステムは備わってないんだろうか、っていうくらいスゴイ。ひで子さんの強さの秘密を解明して社会保障費の削減に役立てろ!と言いたい。

カラダだけでなく言うこともいちいちスゴイというか、ゆるぎない信念と強さを感じさせるところばかり。無罪判決が出たあと、検察が控訴するかもしれないことについて「したけりゃあすればいい」ですからね。ふつうならここまで国家権力に翻弄されまくったら途中であきらめてしまう人のほうが多いだろうし、ここまで来て控訴なんてされたら大変だ、と思って「頼むから控訴しないで」って言いたくなるはず。「したいならご勝手に」とはなかなか言えないでしょう。私の亡父は80歳くらいになった晩年にはなにかというと「そんな気力がない」と言っていたんですが、ひで子さんにはそんなところはみじんも感じられない。

 

いまは90歳超えの長寿者は珍しくないけれど、そのなかでも寝たきりの人やヨボヨボの人、元気に自立している人、とその姿は人それぞれ。その差はいったいどこからうまれるのだろう。

もって生まれた丈夫なカラダがあるとか、病気しなかったとか、そういう要因ももちろんあるでしょうが、90すぎてあのような活力をもっている人はそうそう多くないと思われ、それだけではないんだろうな、と。

生きているうちにやり遂げなければならないという明確ななにかが欲しい

想像するに、やっぱりそれは確固とした、生きているあいだにやり遂げなければならないなにか、をもっているかどうか、ということなんじゃないか。

ひで子さんも一時絶望して酒におぼれたそうだが、「弟より先にまいってしまうわけにはいかない」と奮起したという。

ひで子さんの場合は、検察や裁判所がちゃんと仕事してさえいれば、そんな課題みたいなものを背負う必要がなかったわけだからちょっと話が違うかもしれないけれど、そういった人生におけるミッションというか目標というか、なにがなんでもそれを達成しなければ!というものをもってやりきるということが、老いてもなお活力をもって生きる必要条件なんだなあ、と、一連の報道をみていて感じます。

 

私の亡父は建築業を営んでいましたが、60代でリタイヤしてその後は自分のやりたい趣味に没頭しました。母もそれにくっついて同じように老後をすごしました。そういう生き方を否定はしないし、だからそうなった、と断言はできないけれど、母はまもなく認知症が始まり父は80になるころにはすっかりヨボヨボになってしまった。もし亡父が「生涯現役」を貫いて母もそれを手伝っていたら、ひょっとしたらもうちょっと違った結末になったのかもしれない。

自民党の長老たちなんかをみていると、80すぎてまだまだ(無駄に)元気な人がいっぱいいますよね。あれをみると、ミッションや目標でなくとも、カネでも権力でも名誉でもなんでもいいから、なにかに徹底的に執着する、ということでもいいのかもしれない、と思いますね。カネや権力や名誉をなにがなんでも死ぬまで守りたい、という、はたから見ればみっともない執着であっても、それに向かって一生けん命やって元気であるならまあいいじゃないか・・・というわけには権力者の場合はいかないな。権力者の場合は潔く引退するべき。大企業の経営者なんかを見ていても、誰とは言わないが70すぎてくると大部分がおかしなことを言い出す。

 

自民党のことはともかく、人生の最期まで活力を維持して生きるためにはなにかミッションや目標が必要、と考えると、よく言われる、ていうか統計的に明らかである「独身男は短命」っていうのはまさに当然、と思えてくる。ひで子さんの場合も家族のために頑張った。守るべき家族がいるとか、この人のために先に死ぬわけにはいかない、とかいうのがあれば活力を維持できる、ということでしょう。

すると私のように家族もなくぱちんこなど打って過ごしているだけのゴミ人間は早死に必至ということに。そこは仕方がない(勇気さえあれば好きなタイミングで自分の人生を閉じたい。その勇気はたぶん死ぬまでもてないと思いますが)とあきらめるとしても、まだまだ若い方で「ひとりでも生きていける」と思っている人にはぜひとも「とりあえず結婚して家族を持っておいたほうが・・・」と言いたい。

 

袴田さんの事件の報道をみていて、あらためて死刑は廃止しなきゃダメだと認識するとともに、私もなにか人生におけるミッションを持ちたい、と思いました。まあ「今まで自堕落にテキトーに生きてきてなにをいまさら」って話なんですけどね、人生に遅すぎるということはない。そういったことを念頭に置きながら活動していこうと思ってます。

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