11月11日は「介護の日」だそうです。
私も、今朝の新聞をみるまで全然知りませんでした。
厚生労働省が2008年に制定した、ということで、
まだ歴史が浅いせいもあってあまり浸透していませんね。
「いい日、いい日」という言葉にかけたそうですが、あんまりよくわかりませんね。
高齢者や障碍者にたいする介護に関して、国民への啓発を行う日、ということが
目的だそうですが・・・。
自分の身にふりかからないと知ろうとしない
私もそうでしたが、自分が介護者に(多くは突然に)なってみないと、
介護や介護保険の制度などについて、勉強しよう、知ろうとは、
ふつうはあまり考えないでしょう。
私は、嫌いな人でなくとも他人と話すのは苦痛なので、
近所づきあいとかほとんどしないんですが、
まれに近所の方とバッタリ出くわすと、話すことがあります。というか話さざるを得なくなる。
で、先日、近所の奥さん(もうすぐ70代くらい)とたまたま話をしまして、
私の母の話題になりました。
すると、びっくりするくらい、介護や介護保険の知識をお持ちでないことがわかる。
その奥さんもだんなさんも元気で、まだまだ介護者や要介護者にはなりそうにないので、
まあしょうがないのかもしれません。
介護保険を使うにはどうしたらいいのかわからなかったりとか、
特別養護老人ホームと有料老人ホームの違いがわからなかったりとか。
この世代の方の親が存命のころは、介護保険などなく、
デイサービスなどもなかったわけで、基本は自宅介護だったでしょう。
だから、もし介護の経験があったとしても、いまの介護保険の制度などを知らなくても無理はない。
介護の経験がなければなおさらです。
なにしろ、私の兄だってなにも知りませんからね。
自分の親が認知症で話もできなくなってるにもかかわらず、です。
くだらないことを訊かれると、
「そんなことも知らねえのかよ!当事者っていう意識がねえのかよ!」
と怒鳴りつけてやりたくなる衝動にかられます。
仕事が・・家族が・・と言えばそれで済むと思っている人たち
親などが要介護になったとしても、
「どうしても自分がやらなければならない」という状況にならないかぎり、
なかなか当事者という意識は芽生えないようです。
私の場合、たまたま同居していたから、介護を担うことになったわけです。
兄は、上場企業につとめ、家族も持っている。
で、こういう状況だと、兄のほうは(本人は否定するでしょうが)
「おまえのほうでなんとかしてくれ、おれは忙しい」という意識に
どうしてもなってしまうらしい。言動のところどころにそういう意識が見え隠れします。
父が亡くなったときでさえ、「忙しい。明後日なら行ける」とかぬかしたので、
私は「じゃあ来なくていい。でも、カネだけは出せよ。」と言って電話を切ったのです。
結局、誰かがなんとかしてくれる、という状況なら、
「仕事が忙しいから介護できない」「家族がいるから介護できない」
「カネがない」(←ほんとうはあるが、「親に使うカネはない」ということでしょう)
とか言えば、それで済むと思っているのです。
介護者は、そんなこと言ってられないんですよ。
忙しいからオムツは明日換える、とか、
忙しいからメシは明日、とか言えないわけです。
介護を担った人が不利益を被る不公平
こうして、なんだかんだ言い訳して介護から逃れたほうは、
(介護者がオムツを替えたりしている間に)会社で働いていい給料をもらって貯金をし、
老後は厚生年金と退職金で優雅に暮らし、
自分が要介護になったときは子供にめんどうをみてもらうのです。
かたや、介護に明け暮れたほうは、
(介護から逃げたほうが知らん顔してカネを稼いでいる間に)オムツを換え続け、
働くこともできず、じぶんのお金は介護で使ってしまい貯金もなく、
親がいなくなったときには自分も老いて、カネも仕事の能力もなにもないのです。
わたしのように独り者なら、自分の老後にめんどうをみてくれる人もいない。
介護が原因で婚期を逃したり、離婚したりする人もいるでしょう。
介護から逃げる人は、結局、親より自分のほうが大事だと思っているから逃げるのです。
それはしょうがない。私も自分のほうが大事だと思っている。
しかし、私の兄のような人間の場合、そのことに気が付いていないことが問題なのです。
自分は、親のためにできるだけのことをしていると思っている。
もしくは、したいけどできない、と思っている。
そうではないことを理解するべきです。
多くの場合、「仕事が」「家族が」「カネが」と言って逃げる人は、
介護をすることになれば自分が何かを失う、それが嫌だから逃げているだけにすぎない。
介護できない、介護をひとに任せる、そういう人を批判したいのではありません。
ただ、「親より自分のほうが大事」と、自分が思っていることを認め、
そのうえで自分ができることをさがすべきだと思うのです。
私の兄にはそういうところがない。
なにひとつ、自分の親のために、自分のものを失いたくないと思っている。
そのくせ、自分は精一杯やっていると思っている。
私の数倍の収入があるのに、施設の料金を少し出そう、とか、
そんなことを一言も言ったことがない。
親が元気な時は、自分のこども(つまり孫)のために、
さんざんカネを使わせたくせに、そんなことはもう忘れている。
介護について真剣に考えるきっかけとなればいいが
「介護の日」が、介護について国民が真剣に考えるきっかけになるには
まだまだ年月が必要だと思います。
とにかく、いま若い人も、いつか(たぶん、突然に)介護者になったり、
被介護者になったりするリスクはだれでもあります。
私も、父が寝たきりになって病院から帰ってきたときは
もう死ぬしかないと思いましたが、それは本当に予測しないことでした。
いつか来るかもしれないそのときのために役に立つように、
このブログでも介護の記事を発信していきたいと思ってます。