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敬老の日2022

「人生100年時代」と言われはじめて久しいですね。

2022年9月1日時点で、日本には100歳以上の高齢者が90,526人いらっしゃるらしい。52年連続で増加しているとのこと。

nippon.com 100歳以上高齢者、9万人超え : 52年連続の増加、女性が89%

前にも書いたけど、私が子どものころ、昭和の時代には100歳超えのご老人はかなり稀な存在で、それだけのご長寿ならそれは社会全体で祝ってあげようってなるほどめでたいことだと認識されていましたね。

有名無実「敬老の日」

だから政府も9月15日の「老人の日」に、100歳のご老人に純銀製の「銀杯」を贈呈している。しかしこれも来年度からは「銀メッキ」に変更になるらしい。

産経新聞 100歳記念の銀杯、「無駄遣い」との指摘受け銀メッキ製に… 高齢者増で地方自治体も続々とお祝いを簡素化

これが始まった昭和38年には対象者はわずか153人で、それが今となっては3万人超えということになってるようで、すると「100歳超えなんて別に珍しくもない。税金でお祝いしてあげる必要ある?」って話になるのも必然か。高度経済成長時代のように将来がバラ色っていう状況であれば5万人だろうが配ってあげる余裕もうまれるでしょうが、今はそうじゃないですからねえ。それは無能自民党の奴らがテキトー・デタラメを続けてきた結果なんだけど。

まあ「100歳超えは珍しくなくなったから」っていう理由はわかるとしても、「無駄遣いだ」っていう指摘が出るっていうのはちょっと悲しい気がしますねえ。無駄遣いを言うんなら政党交付金だの議員の文通費だののほうが圧倒的に巨額なうえに国民のためには1ミリも役に立ってない完璧にムダな死に金なわけで、そのへんに手をつけようとしないくせにこんなところでわずかな経費節減して「仕事してます」アピールされても困る。個人的には「ほかに削るべきところがあるだろ」と感じますが、「銀杯」なんていらんよ、っていう方もいるでしょうから、行政がやるべき「お祝い」はどうあるべきか議論するきっかけにすればいいんじゃないですかね。

こないだの9月19日は「敬老の日」でしたから、このへんについて今思うことを書いておきます。

経済的にも精神的にも高齢者を支える余裕がなくなった絶望の国

いずれにしても、世界一の少子高齢化国家となった現在の日本においては、「高齢者」に対する扱いも意識もどんどん変化してきている。

100歳以上の高齢者が9万人!とか言われても、みんなが長生きしてめでたいじゃないか!素晴らしい!と素直に考えられる人は、いろんな意味で貧しくなった今の日本ではそれほど多くないんじゃないでしょうか。

先日の読売新聞の投書コーナー「気流」にこんな投書があるのを発見。

周りの高齢者を見ると、自分のことばかり考えている人が多いようで気になっている。

場所をわきまえずに携帯電話で話す。電車の座席で両足を広げ、2人分を占拠する。かばんの奥にしまったシルバーパスを取り出すのに数十秒かかり、バスの他の乗客を待たせても構わない。このような高齢者を目にすることが何と多いことか。

19日は敬老の日だ。若者が高齢者を敬うだけでなく、高齢者自身が若者の模範になっているかどうかを自問する日としたらどうだろうか。

引用元→読売新聞オンライン 気流

この投書者も67歳という「高齢者」で、まあ~おそらく自分のことは客観視できず「自分だけは違う」って考えちゃう人なんだろうな、というのが率直な感想。いやいや、あなたもたぶん同じでしょう。

「シルバーパスを出すのに数十秒かかり・・・」なんていうけど、それくれえ待ってあげりゃあいいじゃねえか。そんな程度のことも許せないような器量のなさ加減では到底、若者の模範にはなりえない。人間としてまだ練られていない未熟な若者が「ジジイ早くしろ」っていうのは仕方がないとしても、それに対して「トシとれば誰でもそうなるんだから少しくらい待ってやれ」って諭してやれる人こそが「若者の模範」になりえるのでは。

それから、「場所をわきまえずに携帯電話」とか「電車の座席で足を広げ」なんてのは別に年寄にかぎったことではなく、それは本人の問題。おそらくそういう年寄に何度か遭遇して嫌な思いしちゃうとこういう過度な一般化に陥ってしまうんでしょう。それにそういう自分勝手な行動は、高齢になればなるほど、もう仕方がないことととらえるべきです。

たしかに傍若無人なご年配に遭遇することはけっこうある。ぱちんこ打ってても、ご年配の多い海物語やジャグラーのシマで嫌な思いをすることがほかの台を打ってるときよりも多いかもしれない(ボタンをバシバシぶっ叩く人とか)。しかし、私は母が認知症で壊れていく経過を全部みてやっと理解したけれども、人間はトシをとると理解力や判断力が衰えてだんだん子どもにかえっていくのであり、それはもう避けられないのです。80過ぎてもまだ権力にしがみつき、構ってほしくて自己中心的なガキのような言動を繰り返してる自民党のおじいちゃんたちを見てもそれは明らかでしょう。

私の住む地域では高齢人口が多いこともあり、スーパーでの買い物で混んでいるときにレジで並んでたりしてるとお年寄りに割り込まれたりとかいうのがたまにある。しかしそれは周りが見えてないから私の存在に気づかす結果として割り込んでしまっただけだったり、もしくはレジと列の関係性を理解してなくて並び方がわからなかったりで、もう仕方がないのです。まあ私の後ろにもさらに並んでたりしたら声をかけるけど、その程度のことをつかまえていちいち目くじら立てて新聞に投書したりする人がいるようなギスギスした世の中であることを問題視するべきです。

ともかく、お年寄りが多少自分勝手にふるまったとしても、多少のことは「しょうがねえなあ」で済ませて、若者のほうでフォローしてやるっていうのが理想なんじゃないの、と思ってます。しかし今は若者のほうにそんな余裕がない。そのおかげで前掲のようなヒドイ投書が大新聞に載ったりしちゃう。

高齢者を尊重する余裕のある人間になりたいし、そういう世の中になってほしい

特別養護老人ホームにいる私の母は今は寝たきりでなにも意思表示できず人形みたいな感じになってて、その意味では介護職員さんに余計な手間をかけさせるようなことはあまりありませんが、元気だったころは介助に対して反抗してた時期もあったし、職員さんの言うことなんか全然聞かないっていうこともありました。穿かされたオムツをビリビリにしてウ〇コを壁に塗りたくったときは私も絶望した。それだけをみればまさに「若者の模範」どころじゃなかったわけですが、認知症という病気のせいだから仕方がなかったし、認知症を発症する前の母が「若者の模範」たる人間ではなかったかというと、息子が言うのもなんだが絶対にそんなことはなかったと断言する。まあ性格については疑問に思うところもあるにはあったけど、「働き者」という意味ではいま考えると信じがたいくらい凄かった。いったいいつ寝ていたんだろうっていうくらい。

そういう昭和の人間が敗戦でボロボロになった日本を再生してくれたから私はいまこんな生活をしてられるし、若者は(だんだん貧しくなってきているとはいえまだまだ)豊かな生活をおくっていられる。そのへんを若い世代がみんな忘れちゃってることが、今の世の中の荒廃の原因のひとつでもあるんじゃないのかなあ。

まあ尊敬できないような年配者がいるのも事実ではあるけれど、「ジジイだからしょうがねえんだよ許してやれよ」とみんなが言えるような余裕のある世の中になってほしいものです。権力者は別ですよ。権力者はそんなトシになる前に権力の座から降りるべきだし、「ジジイだからしょうがない」で済ませてはいけません。

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