父が亡くなってから数年が経つのですが、
いまだに遺品が片付かずに苦労しています。
昭和ヒトケタ世代でモノがない時代に生まれ育ったからか
とにかくモノが捨てられない人でしたので
とにかく量が多いというのもあるんですが、
それ以外にもなかなかはかどらない理由が
遺品整理という作業にはありますね。
親などの家族を介護されている方は、遠からず必ずやることになるので、
記事にしておきます。
トシをとるとモノで溢れるのは必然か
私自身は、いわゆる「断捨離」をもてはやす風潮が気持ち悪くて、
モノを大事にしてなのが悪いんだよ・・というスタンスです。
しかし私の亡父のようにあまりにも捨てられない人もどうなのかなと思います。
そもそもくだらないものを買うな・・とも思うし。
晩年の父はいちおう、モノがあふれていると気にはなるようで、
よく「整理」を行っていました。
で、ドヤ顔で私に「どうだ、キレイに整理したぞ」って言うんですけど、
ただモノの配置を見た目上キレイに直した、というだけで、
モノの量は全然減っていないのが常でした。
私は毎度「あのねえ・・・『整理』っていうのはね、
要るものと要らないものをわけて、要らないものを処分することを言うんだよ。
とにかく、要らないものをどうにかしようよ。」
と言ってしまっていました。素直に褒めてあげればよかった、と後悔しています。
私はすぐに「こんなもんいらねえだろ。捨てようよ」みたいなことを言ってしまっていましたが、
これも本人にとってはムカつく言葉だっただろうなと。
で、とにかくモノを捨てることをしない。
私も「捨てたら?」と言うまではやっていましたが
さすがに勝手に捨てることはできず、
亡くなったあとで苦労することに。
高齢者はモノを捨てられない、というのは、
うちの父だけに限ったことだけではないようです、
よく話題になりますよね。親の家の片づけが大変、っていう話。
これはなんでなんだろう、と考えてみると、
・「もったいない」という道徳観
・未来は少ないので過去にばかり意識が行き、思い出の品は捨てられない
・気力と体力の衰えのためできない
といったところなのでしょうか。
孫と遊ぶためのおもちゃ・道具
孫と遊ぶために買ったもの。
ビニールプールとか、氷かき機とか、ビー玉とか、その他もろもろのおもちゃ。
これがものすごい量が残っていました。
孫がみんな大きくなっちゃった後では絶対に使わないようなものも
すべて残してありました。
このあたりは父の没後に比較的気楽に捨てられました。
私自身は思い出がないものでしたから。
なんで捨てないんだろう、と思うんですけど、
なんとなく気持ちはわかります。
私も甥や姪と遊ぶためにボードゲームなどたくさん買いまして、
いまやみんな大きくなって遊びに来てくれることはほとんどないにもかかわらず、
「いつか使うんじゃないか」と思うと捨てられない。
洋服はなかなか難しい
父はとくにオシャレに気を使うほうではなかったのですが、
なにしろ着なくなったものも絶対に捨てないので
とてつもない量の洋服が遺品として残りました。
さらに、いまは特養にいる母は服を手作りするのが大好きだったので
いまはサイズが合わず着られない母の服もものすごい量。
これがなかなか処分が難しいのです。
なにも考えずにまとめてリサイクル業者にでも持っていけばそれでいいのですが、
洋服は父や母が着ていた姿を私も覚えているし、
思い出がよみがえってくると捨てるのがものすごく忍びない。
私が着られるTシャツとかはとっておき、
あとは捨てることにしましたが、
スーツだの皮ジャンだのといった高価なものは後回しにしちゃっていまだにそのまま。
最も難しいのは写真とか日記とか
60代で家業をたたみリタイヤした父は、
ためたお金で母と海外旅行などに行きまくり、
もともと社交的だったこともあり写真もものすごい量を残しました。
さらに何十年にもわたってつけた日記もすべてそのまま残っていました。
こっちはいまだに処分することができずそのままです。
デジタル化してくれる業者とかもいるようですが、
仮にデジタルにしても、紙の原本を捨てるという行為そのものに
ものすごく抵抗があります。
父だけでなくいろんな人も写っていますし。
人はなぜ写真を残そうとするのか
膨大な量の写真。
戦時中くらいの、まだ子どもで無邪気に笑っているところとか、
新婚旅行でカッコつけて写真に納まっているところとか、
親方として職人を従えて仕事に励んでいるところとか、
いわば父の黄金時代の写真をみると、私はため息しか出ません。
エネルギーにあふれた若い姿と、
晩年に病気や骨折で寝たきりになったかわいそうな姿を
両方みた身としては、
「どれだけ若いときに輝いていても、年をとればどんな人間も必ず弱り、そして死ぬのだ」
という虚しさのみが沸き上がってくるのです。
そして、私が小さいころの写真を眺めていると父や母が私にしてくれたいろんなことが
思い出としてよみがえる。すると、その父や母が老いてから十分な介護をしてやれなかった
という後悔の念があふれ出てきます。
介護を体験していなければ、
「懐かしいねえ・・」と笑顔で写真を見られるのかもしれませんが、
在宅介護でそれなりに苦労したあとで見ると、
もっといい介護をしてやれなかったものか、
もっとやさしくできなかったものか・・・
という気持ちにしかなりません。
だから、写真だの日記だのは見る気がしません。
こうなると、そもそも写真ってこんなにいろんなところで撮って保存しておく必要が
あるものなのだろうか・・・という気さえしてきます。
だいたい、膨大な量の写真を撮っておきながら、
それを父や母があとでみかえしているところは一度も見たことがありませんでした。
本人たちはめったに見かえさない、
あとに残された人間は見るとせつなく辛い、
となれば、写真などなくてもいい・・・
と考えるのは私だけでしょうか。
元気なうちに整理しておくべき
そういうわけで遺品整理が進まずに困っているのです。
父が生きていた痕跡を処分するのはつらい。
しかし、その痕跡が目に入るのもつらい。
母が元気なら「これどうしようか?」と相談することもできましたが、
認知症がすすんだ今となってはそれも不可能・・・。
まあ、私の場合は「思い切って捨てる」ことができればそれで解決するのですが、
やはり本人が元気なうちに整理するか、
もしくは本人から
「オレが死んだら全部捨てろ」とか
「オレが死んだら~に~を分けろ」
とか言う言葉を引き出しておくべきじゃないかな、と思っています。
父は生前に
「延命措置は一切拒否する。胃ろうも拒否する。楽に死なせろ」
と言っていましたので、危篤になった時に医師からそういったことをどうするかを訊かれても
自信をもって「本人はこう言っていたので・・」と言うことができました。
それと同じで、もし父が「洋服や写真や日記なんか全部捨てろ。とっといてもしょうがない」
とか言うのをきいていれば、もっと楽に遺品整理できたと思うのです。
とはいうものの、元気なのに「万が一のあとは、写真とか全部捨てていい?」とか
訊くのもなかなか難しい。
それに、「コレいらないでしょ?処分しようよ」と言ってもわかってくれないので
元気なうちに整理を・・といのも難しい。
本人が元気でも故人でもどっちにしろ大変なわけですが、
どうせなら本人が元気なときに話し合いながらやったほうが
気持ち的にはいいんではないかな、と思います。
親をもつ人はいつか必ずやることであり、
ひいては自分の生き方(自分の遺品もいつか整理される)
にもかかわってくる問題なので、
「こうすればよい!」という気の利いたことは書けないけれど、
考えるきっかけになれば、と思い記事にしてみました。