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大相撲:大関貴景勝が現役引退 & その他雑感

ぱちんことまったく関係ない話。

22日に終わった大相撲9月場所。関脇大の里が2回目の幕内最高優勝を遂げ、どうやら来場所「チョンマゲ大関」になるようです。

まだ9場所しかやっていないのに師匠の稀勢の里の幕内優勝回数に並んでしまったのか。そこは称賛したいし、お祝い申し上げますが、くれぐれもテングにならないように気をつけていただきたい。

その意味での悪い手本は相撲協会にはウジャウジャいるから本人の意識次第でなんとかなるはずだと思うけど、相撲一筋でやってきたアンちゃんが20代前半の若さでチヤホヤされれば調子に乗ってしまうのは当たり前というもので、そう考えると、強い力士がテングになって失敗したりするのは、力士の活躍に伴ってうまれるウマイ汁に群がろうとする周囲の人間が悪いということになる。親方はじめ周りの人たちは、彼がどれだけ勝ちまくろうが「まだまだ」「調子にのんな」「白鵬のいまの人望のなさと体たらくを見てみろ。ああいうふうになりたくなかったら・・・」というふうに諭し続けるべきでしょう。

それよりも、残念なのは貴景勝の現役引退。年寄「湊川」を襲名し部屋付き親方として後進の指導にあたるという。まだ28歳で、年齢的にはまだまだイケるという若さですが、ケガケガケガの土俵人生でもう限界ということなんでしょう。

「頚椎椎間板ヘルニア」は先日私もやってその痛さは体験したから、「あれを抱えて相撲とるのはそりゃあ無理だろ」というのがわかる。お疲れ様でした、と言いたい。

「勝って驕らず、負けて腐らず」を貫いた漢

彼のことはこれまでにも何度か書いてきましたが、印象に残っているのは新三役になったときの彼の言葉。師匠の貴乃花と同じく、序の口からスタートして20場所で三役という、順調なスピード出世で番付を駆け上がってきた21歳の彼が言ったのが、

「勝って驕らず、負けて腐らず、いちいち精神を上下させないような力士になりたい」。

貴乃花部屋の貴景勝が新三役に!「勝って驕らず、負けて腐らず。」という言葉について考えてみる の記事で、「これは白鵬へのあてつけじゃないのかな」とか、「ギャンブルでもこれは大事なこと」という趣旨のことを書きましたが、これは非常に立派だしカッコいい。「上を目指したい」とか「横綱になりたい」(もちろんそういう気持ちはあったはずだが)ではなく、「これこれこういう立派な力士になりたい」ですからね。

それからもう7年、彼が土俵上でみせてきたことを振り返ってみると、その目標はほとんど達成されたといっていいんじゃないか。土俵上ではなにが起ころうとも無表情、喜びや悔しさを表に出すことはなかったし、過去のどこぞのモンゴル横綱みたいに自分からどこが痛いとかどこが調子悪いとか言わなかった。

彼も人間だから、「精神を上下」させることがなかったということはないだろうけど、少なくともそれを土俵上でみせることはなかった。それを貫いたのは、本来は当たり前のことなれどとてつもなく立派なこと。これができない奴が多いですからねえ。悔しいと土俵を叩いたり、うれしいとガッツポーズしてみせたりするみっともない奴ばかり。相撲ではそれじゃあいけないんだ、ってのがわかってないで、よくまあ関取だとか偉そうにできるもんだと感心する。

いつだったかの熱海富士との優勝決定戦で、正面から当たらず勝利して大関という「番付の重みを示した」ときは私も徹底的に批判し、「『精神が上下』したんだろうなあ・・」と思いましたが、それも彼の相撲人生のなかでのひとつの通過点、これからの後進の育成という第二の相撲人生へのステップだったと思えば、それは必要なことだったのかも。彼の師匠、あの空前絶後の大横綱貴乃花ですら、兄弟での優勝決定戦では「精神を上下」させておかしなことしちゃったわけですからね。

大相撲:大関貴景勝が4度目の幕内最高優勝。「番付の重みを示した」か?

こういう男の中の男の引退よりも、ポッと出の力士がいっきに大関に駆け上がったことのほうが大きく報道されて話題になるのは、仕方のないこととはいえ、そこに現在の相撲界およびそれをとりまくファンやマスコミの「勝てばそれでいいんだ」という意識がにじみ出ている気がする。

真摯な土俵態度を貫く力士こそ評価されるべき

そういえば大関の豊昇龍と琴桜はふたりとも8勝7敗で終わり、親方らからは「だらしない」「しっかりしてくれよ」という声が上がった・・という報道も出ていました。

 

いやいやいや、8勝7敗だろうがそんなことよりも先に言うべきことがあるだろ。琴桜にも文句はあるがとりあえず豊昇龍の「礼やりなおし」はなんだよあれ。王鵬に完敗して土俵たたいて悔しがり、礼をせずにふてくされて引き揚げようとした。そして審判にやりなおせと言われて土俵に上がるも、相手に合わせず適当に礼しようとしてまたやり直していた。これが協会の看板、力士を志す少年たちの手本となるべき大関の姿? いやいやいや、こんな奴すぐクビにしろよ。

まさに「負けて腐る」恥ずかしいふるまい。しかもこいつの場合はこれが毎度毎度ですからね。そのうえ立ち合いではいつも相手よりも後に、じらすように手をつく。見てるほうがイライラするみっともない土俵態度。大の里との取り組みでは大の里がさきに手をついて待っていたのになかなか手をつかないもんだから大の里がつっかけてしまったけれど、それに対して「なにしてんだよお前」みたいなカオしてた。報道でも大の里が気持ちがはやってつっかけたみたいに言われてたけど、いやいやいや相手が関脇でお前は大関だろ。どんなタイミングだろうが受けて立つのが当然だろ。クソみたいなことだけオジや白鵬のマネすんな。

・・・ということを、理事長や審判部や横綱審議委員会はすぐに言うべきだと思うんですけどねえ、そいつらのほうも言うことは勝ったの負けたの、勝ち星が少ないからふがいないだの、勝ち星が多いから立派だの、そんな程度の低いことばかり。

負けてふてくされて礼もしないような奴をみたらソッコーで「こんな野郎は仮に2場所連続優勝しても絶対に横綱には推挙しない」とかいう声明を出すとか、そういうふうに横審がちゃんと仕事をしていれば、過去のモンゴル横綱たちがやったような不祥事は起こらなかったし、白鵬ももうとっくにモンゴルに帰って、宮城野部屋で起こった不幸もありえなかったはず。

横綱には「心・技・体」がほかの力士よりも飛びぬけていることが求められるはずで、その「心」の部分を考慮せずに「強ければいい」という基準で横綱にあげちゃったからモンゴル横綱たちみたいな失敗ばっかりになったわけでしょ。もちろん「心」は内面の問題だから外からは見えないし数値化もできないから簡単ではないけれど、「負けて土俵をたたく」とか「負けたら礼しない」などというのはもう「心」が備わってないことが表に出ちゃっているわけで、ならば「こんな奴はどれだけ勝とうが横綱にはしない」と明言するのが正しいんじゃないか。

「真摯な土俵態度を身につけないと横綱になれない」というふうになれば、ただ上にあがりてえ、偉くなりてえ、カネを得てえ、というだけでやっている力士であっても少しは考えるでしょ。少なくとも表向きは「ちゃんと礼しなきゃ!」となるはず。そういうふうに、仮に気持ちがこもってなくてもちゃんとした態度をとるように心がけているうちに、それが大事なことであるとほんとうに気がつくかもしれないんだから、まずは勝ち星の数で云々するよりもさきに「礼もできねえくらいならやめてしまえ」と言ってやるのが親心というものなんじゃないか。

まあ横審も協会もどうせ「大関がやっと勝ち越しではふがいない」とかぬかすだけで終わるんだろうなあ。ここで「そんなことより・・・」という委員がいれば「おお」って感心するところですけどね。

 

たったの15日間でちょっと負けが増えただけで「ふがいない」とか批判される。たったの15日間で勝ち星が多ければ「立派」「責任を果たした」と称賛される。

土俵上で悔しがってふてくされた態度をとってもたいして怒られない。悔しい気持ちを押し殺して真摯な態度を貫いてもべつに褒められない。真面目にやっても勝ち星が少なければぶったたかれ、態度が悪くても勝ち星が多ければ褒められる・・となれば、そりゃあみんな「勝てばいいんだろ勝てば」ってなるでしょ。横審や協会幹部がやマスコミが、相撲界がそういう「正直者がバカをみる」という世界であることを問題だと思ってないから、いつまでたっても相撲界はまともにならない。

土俵上で悔しがったりガッツポーズしたりを許容するなら、それはもう伝統の武道でも神事でもないのだから、相撲協会は公益財団法人の資格を返上し、徹底的にショーアップした「プロ相撲」団体に変身して利益を追求しろ。ベビーフェイス力士が花道でヒール軍団に襲われるとか、ヒールに味方する行事がヒール力士の反則を見て見ぬふりするとか、呼び出しはセクシーなラウンドガールみたいなのに変えるとか、ショーとして面白くする方法はいくらでもあるだろ。

しかしまともな相撲ファンはそんなもの見たくないし、力士が悔しがってふてくされたり勝ってヘラヘラするところも見たくない。ただ男と男が命懸けで勝負するところが見たいだけ。平成の若貴時代はそれがフツーに見られたからあれだけのブームになった。

大の里という、大きな可能性を感じさせる看板力士が出てきたのは喜ばしいことでしょうが、それだけではいずれ大相撲は滅びることになるでしょう。それを変えるためには、勝ち星の数だけでギャアギャア騒ぐことをまずはやめて、真摯な土俵態度を貫く力士をこそ評価するようにすることが必要なんじゃないか。

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