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「津久井やまゆり園事件」の裁判が進行中・・・

神奈川県相模原市にあった知的障碍者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月に発生した大量殺人事件。

現在、その事件の裁判員裁判が進んでいます。

 

あまりにもひどい事件。私ごときにはこれに関してなんだかんだと言う資格も能力もありませんが、認知症で特別養護老人ホームにいる私の母も言ってみれば「知的障碍者」であり、その母と私とのこれまでの関わりをふりかえってみるとき、この事件は「稀に見るキチ○イ野郎が起こした特異な事件」のひとことで片付けられない、片付けてはいけないものがあると感じます。

私の母も「人間ではない」「税金の無駄」なのか

この事件の犯人は、「意思疎通が不可能な障碍者は人間ではない。彼らを生かすために税金が無駄遣いされている。障碍者はいないほうがよい」ということを動機として語っているらしい。

 

アルツハイマー型認知症と診断されてすでに10年以上経過している私の母。

いまとなってはもう喋ることはできず、他人がかける言葉の意味も理解できず、立ち上がることも自力で排泄することもできず、生活の一切合切を他人の助けなしに行うことができなくなりました。

その母は、この事件の犯人の論理からすると、「生きてる資格がない、人間ではない」ということになるわけだ。

おぞましいことに、彼は「こいつは喋れるのか?」という基準、意思の疎通が可能かどうか、という基準で殺すかどうかを決めていたらしい。

 

しかし、「意思の疎通ができるかどうか」というのは、意思をやりとりする片方の側からは確認しようがないですよね。

さきほど私の母を「他人の言うことも理解できない」と言いましたが、これもほんとうのところはわからない。

「○○さん!」と名前で呼びかけると「はい」とかいう返事をたまにすることはあるけれど、基本的になにを言ってもまともな返事は返ってこない。でも、ひょっとしてひょっとすると、こちらの言っていることを理解していて、なにか言いたいんだけれどそれを言葉にできないだけなのかもしれない。

それを確認することは不可能なわけで、犯人の言う「意思の疎通ができない」なんてのは、ただ単に勝手にそう判断しているだけのことであって、たわゴトとしかいいようがない。

だいいち、話をしてもちっともこちらの言うことを理解してもらえない、思いが通じない、なんてことは生きていればいくらでもあること。そのたんびに人を殺すのか。

それを言うなら、「桜を見る会」に関して都合の悪いことを訊かれると突然意味不明のことをしゃべりだす総理大臣や官房長官や内閣府の官僚なんかは、話が通じないという意味で「人間じゃない」ということになるし、彼らに税金で歳費や給与を払ってやることこそ「税金の無駄」ということになる。

 

政治の話はともかく、犯人の主張が筋の通らないことであるのは明らかだし、絶対に許すことのできない犯罪であると怒りを感じる一方で、この事件の報道にふれるとき、私は彼への怒りとは別の、なんかものすごく胸が苦しくなる気持ち悪さ、悲しさ、嫌悪を感じます。

彼のような思想は、誰もがもつ可能性があるのでは

というのは、私自身も彼の主張していることと似たような気持になったことがあるからです。

 

認知症がどんどん進んで、元気だった時とはまったく別人格に変化していく母の世話を自宅でしていたころ。

母の物忘れや奇行、徘徊や夜間の不穏などに悩まされ、これがいったいいつまで続くんだろう、どこまで行っちゃうんだろう・・・という不安にさいなまれていた私は精神的に追いつめられ、ここにはとても書けないようなひどいことを母に対して怒鳴ったりしていました。

 

そして、(今はそんな気持ちはまったくないけれど)こういう気持ちをもつこともありました。

「もし母に万一のことがあっても、たぶんちっとも悲しくなく、ただひたすらホッとするだろう」と。

もっと正直に言えば「もしものことがあったら嫌だけど、自分はすごくラクになれるだろうなあ~」ということです。そうなってほしいとは願わなくても、そうなってくれてもいいな・・ラクになるし。とは思っていました。それは間違いないです。

つまり、認知症になった母は私や親族に迷惑をかけるだけの存在になってしまったのであり、いなくなってくれたらそれはそれでいいんじゃないか、という考えをもっていたわけです。我ながら恐ろしい。これはこの事件の犯人の思想と同じようなものですよね。

徘徊で行方不明になったときには「頼むから無事に見つかってくれ」と心の底から思っていたし、どれだけ認知症が進もうとも母は母であり、生きていてさえいてくれればそれでいい・・・というのがほんとうの気持ちなのですが、認知症の介護で疲労が蓄積するとそんなことすらも自覚できなくなるのです。

 

 

そして、こうも思っていました。

「この恐ろしい認知症にだけはなりたくない。なってしまったらもう自分は自分でなくなる。人間らしさは失われる。他人に迷惑をかけるだけになる」と。

 

これも今ならば「たとえ認知症になったとしても人間らしさが失われることはない」と断言できますし、他人に迷惑をかけずに生きられる人間は存在しえないのだから、たいへんな思い違い、アホな考え方・・・だったのですが、母の介護で疲れ切って精神がすり減った状況では「認知症になったら人に迷惑をかけるだけ。生きてる価値はない」と思ってしまったのです。

これも犯人とほとんど同じ思考ですよね。だからといって「殺すべき」「俺が殺す」と考えるか考えないかということだけは違うけれども、認知症で介護が必要になった家族をお持ちでたいへんな思いをされた人なら、本心からではないにしろ似たような気持になったことがあるのではないでしょうか。

 

犯人は施設の職員だったそうで、仕事をしているうちにそういう思考が膨らんでいったのかもしれない・・・のかどうかはわかりませんが、つまり彼のように凶行に及ぶことはなくても、似たような思考に陥ってしまうことは誰にでも可能性があるんではないかと思うのです。

そう考えると、彼の異常性だけにスポットをあてる報道のされ方にはちょっと違和感をおぼえます。彼のような考え方はべつに特別なものではない、誰にでもあること、自分にもあり得ることという見方をしないといけないんじゃないでしょうか。

いや彼が異常なのはたしかなんだけれども、彼をキチ○イ扱いしてこの世から葬り去るだけで終わりにしてしまっては、彼のようなことをしでかす奴はきっとまた出てくるんではないかという恐怖を感じるのです。

「社会に害悪を及ぼす人間、生産性のない人間は消えるべき」という思想は・・・

彼は「障碍者は生産性がない、社会に害悪しか及ぼさない(だから殺す)」という旨のことを言っていたらしい。

これはアドルフ・ヒトラーが「劣等民族」のユダヤ人を根絶やしにしようとしたのと同じような思想ですよね。すぐれたゲルマン民族だけが生きる資格がある、という思想と、生産性が高くて社会に役立つ人間だけが生きてる価値がある、という思想のあいだに本質的な違いはないですよね。

報道をみていると、犯人のこの思想は異常、偏った考え方だ・・・という取り上げられ方がされていますが、よくよく世の中を見渡すと、こういう考え方はいまの日本の世の中にものすごく充満している気がします。

 

人間の価値を生産性で決める傾向はいまに始まったことではない。「高齢者は社会のお荷物」といってはばからない人がいても、批判されるどころか「まあ実際そうだからね」という空気のほうが濃いくらいなんだから。

それに、「社会に害悪を及ぼす人間は殺すべき」という彼の思想は、日本国民の大部分がもっている思想ですよね。だって、国民の大部分は死刑を是認しているんだから。社会防衛を目的とするなら終身刑で事足りるはずなのに、殺すことを要求するんだから。

彼が主張していることは、口に出したり行動に移したりしないとしても、国民みんなが腹の中にもっていることなんじゃないか。

だから彼の主張を「正論」などと評す人がネット上にいたりするんでしょうが、このあたりを考えるとこの犯人はいまの日本の息苦しい社会の問題点というか矛盾というか、「ほんとうにこれでいいんですか?」ということをえぐりだして見せつけやがった・・・という気がします。

 

ともかく、裁判で有罪となれば彼の死刑は免れないところになるんでしょう。

「社会に害悪を及ぼす人間は殺す」と言っていた人間が、「お前こそが害悪だ」として国家に殺されることになる。

 

彼のような人間を生まないためには、「生産性のない人間は役立たず」「害悪をまき散らす人間は殺してもよい」という空気を世の中から一掃しなければダメなのでは・・・

というようなことを、裁判の報道にふれながら考えました。

 

ほんとうに生きづらい、息苦しい世の中になってしまいましたね。まだ中年なのに生産性ゼロの私も、いつどのようにこの世から退場するべきなのか、今のうちによく考えておこうと思っています。

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