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他人事ではない。「介護殺人」。

2022年、東京都葛飾区で、認知症かつ寝たきりの92歳の母親を61歳の息子が殺してしまったという事件。

被告は自宅で母親をひとりで介護していて、経済的にも困窮し、(供述によれば)母親に「殺してくれ」と頼まれてやったとのこと。

khb “壮絶な実態”92歳母を1人で介護の末 殺害か 自宅で何が? 訪問診療医が証言

詳しくは報道をみていただくとして、こういう事件は報道されている以上にたくさん起こっているだろうし、その予備軍のような状態になっている家庭はものすごくたくさんあるであろうことは間違いないところ。

私も何度かここにそれについて書きましたが、

老老介護のはてに3人殺害の72歳被告に懲役18年判決。これは妥当なのか。

こういう事件報道にふれると、「自分もちょっと間違ったらこうなったかもしれない」という気持ちになり、うまく介護できず両親の晩年を不幸にしたことを思い出し鬱々となる。私は幸いにして殺人を犯さなかったけれど、寝たきりになった父と認知症で歩き回って勝手にどこかへ行っちゃう母のダブル介護で苦しんだときは「父と母どちらかだけでも死んでくれたらどんなに楽か」と思っていたのは事実で、いろんな意味で追い詰められましたからね。

私は「このままでは精神的にも経済的にもいつか詰んでしまう。なんとかしないと」と考え、公的なサービスを頼ってその結果空く時間でカネを稼ぐしかないと考えたわけですが、さまざまな理由でそういう思考に至らなかったりそれが不可能である場合もある。この事件はそんな不幸がかさなって起きてしまったんでしょう。

「誰かに相談すればよかったのに」と言うが・・・

この事件の内容をきけば誰でも思うのは「ひとりで抱え込んじゃったからこうなってしまった」とか、「なぜ誰かに相談しなかったんだ」とかいうことじゃないでしょうか。

私の場合、まだ母の認知症が激しい物忘れだけだったころに、「家でじっとしているとますます認知症がすすむんじゃないか」と思い、いわゆるデイサービスに行ってもらおう、という動機で、デイサービスに参加させるには?ということでネットで情報をさがし、その結果「地域包括支援センター」をみつけ、その後なにかにつけてそこで相談して介護サービスについていろいろ学びました。

地域包括支援センターへ相談にいく

これは私と母にとってはひとつのターニングポイントとなったわけですが、葛飾の事件の被告も、こういうところに相談に行ってればなにかが変わったかもしれない。いや行ったのかな?。点滴とかタンの吸引とかも自分でやってたとのことだけど医者にはかかってなかったんだろうか。医者はなにか助言してくれなかったんだろうか。

 

しかしひょっとして、そういう相談を受けてくれる場所がある、ということ自体を知らなかったのかもしれない。カネがかかると思って敬遠したのかもしれない。それに、「親の面倒は子がみなければならない」とか「施設なんかに入ることになったら親がかわいそう」と思ったのかもしれないし、(私の父がそうだったように)親自身が他人の世話になったり施設に入ったりするのは嫌だと言ったのかもしれない(じっさい被告の母上は「家で死にたい」と言ってたらしい)。

そのように、「なぜ相談しなかったんだ!」と言われてもなかなかそうはいかないことだってあるでしょう。

親族はアテにならない

この事件では被告はいちおう兄に相談していたらしい。その兄が財務省の官僚(ていうのをいちいち報じるところにはマスコミの悪意を感じるが)だったというから収入はけっこうあったであろうと思われるけれども、その兄からはなんの支援も受けられなかったという。

まあもともと弟である被告と仲が悪かったり疎遠だったり(私も兄とはそういう関係)、兄と母とがそもそもうまくいってなかったりしたのかもしれない。だからこの兄を一概に責めることは間違いだと思うんですけど、私の場合もまさにこうだったから、被告のつらい気持ちはよくわかる。

父と母のダブル介護になり苦しんでいたとき、私は兄に「介護しているとカネが稼げないから生活費少し出してくれ」と言ったことがあるんですが、「いくら出せばいいんだ」とか「〇万円くらいなら協力できるかな」とかいうのは一切なしに「無理」という一言で一蹴された。

私はぶち切れて電話機を叩き壊してそれで話は終わっちゃったっていうのはどこかで書いたんですけど、奴は私の数倍は収入があるであろうという立場だったから、なんとかしようと思えば少しくらいはなんとかできたはずだし、こっちは「無理」などという言い訳はいっさいできない状況にいたから、簡単に「無理」などというセリフを吐いた奴が許せなかったのです。まずはお前が死んでしまえ、とマジで思いましたねえ。思い出してもムカムカしてくる。

まあ今考えると奴もまだ子どもが学生で、いろいろカネがかかる時期だったから仕方がなかった、のかもしれない。しかしその子どもがまだ小さいころ、なにかにつけて父や母を利用して面倒みさせたり、さんざんカネも使ってもらったくせに、いざその親が寝たきりや認知症になって「カネ出せ」と言われたらそれを拒否するってのは、どう考えても人の道からはずれてないか。

私のことはともかく、こういう事件について「親族を頼れ」などと簡単にいえる人は、家族みんなが仲良しな家庭と親類関係をもっている幸せな人なんでしょう。そうはいかない人もいるし、私の兄のように、親が元気な時は孫などを連れてきて親と仲良くしてたような人間でも、いざ親が衰えて手がかかるようになったらわずかなカネを出すことも渋るような人間もいるのです。

そういうわけで親族などはいざというときには頼れないし役にたたない、と考えておくべきでしょう。この件の被告や私のように、たまたま老親といっしょにいたからそのまま介護することになった、という人が貧乏くじをひかされて終わることになる。

少なくとも親族よりは公的サービスのほうが頼りになる。だからまずは地域包括支援センターなどに相談するべきです。しかし・・・

公的サービスに助けてもらえばよかったのに、と言うが・・・

公的サービスに頼ればなんでも解決するか、といえばそうでもない。このへんもじっさいに体験してみないとわからないことが多い。私の母は老人保健施設(老健)や特別養護老人ホーム(特養)にながいこと世話になりましたが、私の兄などは施設でどれだけのカネがかかっていたのか、母の年金がどれだけ少なくて(国民年金だけだったから当然足らない)不足分を出した私の負担はいくらだったのか、などまったく知りませんでした、ていうか知ろうともしなかったですからね。いまだに老健と特養の違いもわかってないくらい。そのように、自分がじっさいにその立場に立たされないかぎりわからない、わかろうとしないのが人間というものなのでしょう。

デイサービスを使うにしろ施設に入るにしろ、その費用が介護保険で全部出るわけではないので、「カネがない」という場合にはそれをつかうことを断念せざるを得なくなるかもしれない。それに、要介護度によっては使えないサービスもある。特養は要介護度3以上でないと入る対象にもならない。要介護度が2以下でも「一瞬たりとも目が離せない」という状態になっていることもあるのに。

今回の被告の場合は料理人という手に職があったらしいから、母上には施設に入ってもらって自分が働いてその費用を稼ぐ、っていうのが最適解だった・・・とは思うんですが、それもそう簡単にはいかないでしょうねえ。自身が61歳では仕事なんてなかなか見つからないでしょう。それに要介護度はおそらく3以上だっただろうけど、入居まで時間がかかることが多いし、基本的に健康でなければ入居できない。ひょっとすると被告もそのへんは考えたのかも。療養型病院に入るしかない、でもそんなカネない、と思ったのかも。

いずれにしても経済的余裕や「運」がないと、公的サービスによって介護の苦しみをやわらげることはうまくいかないこともある。私は幸運にも(間違っても金持ちではないが)「極貧」というほどではなかったから父や母に施設に入ってもらえて、空いた時間でカネを稼げたけれど、その日ぐらししかできない極貧であったならそれも不可能、介護殺人に至ったかもしれない。

それと、父にも最晩年には老健に入ってもらったものの、入るときにはものすごく強硬に拒否反応を示しましたからね、私も何度かかわいそうだから断念しようと思いました。そこで断念していたらダブル介護がさらに長くなって私ももたなかったと思うんですけど、そういうこともあるかもしれないから、「公的サービスをつかえ!施設をつかえ!」などと言われてもそう簡単にはいかない、というのは知っておくべきでしょう。

 

と、かく介護というものはいろいろ難しいことだらけなわけですが、ひとりで抱え込んでいるよりはとりあえず誰かに相談したほうが状況が変わる可能性が増えるのは間違いないわけで、やっぱりまずは誰かに相談するのがいいっていうのは間違いないこと。「相談したほうがいい」ということと、「相談する場所はここにあります」というのを周知することが必要なんでしょう。

「どんな理由があろうと殺人は許されない」はほんとうか

こういう事件が起こるとよく言われるのが

「どんな理由があろうと殺人は許されない」ということ。

こと介護殺人においてこれを言われると私は言いようもない嫌悪感をおぼえるんですが、これも「ほんとうにそうか?」というのをよく考えるべきなんじゃないかな~、と。

 

いわゆる「安楽死」「自殺ほう助」を非犯罪とする国が増えているらしいけれど、日本ではいずれも犯罪。

私の父も亡くなる直前には苦しみから「もう死なせてくれ」と私に言ったことがあります。そのときはまだ治る可能性があると思っていた(じつはそうじゃなかったようなのだが医者はそれを言わなかった。それもある意味では問題ですね)から、私は取り合わなかったけれど、望まない治療で相当に苦しんで最期をむかえたことを思い出すと、できるならその願いをきいてあげたかった、という気もする。

じぶんの親や子が、もう回復することのない痛みや苦しみによって「死なせて」と懇願する姿に遭遇することはこのうえない苦しみ。しかしその願いをきくことはできない。その願いをきいた人間は犯罪者として罰せられる。法治国家としてはそれが正しいんだろうけど、はたしてそれでいいんだろうか・・・というのは、もっと議論されるべきじゃないか、と。

だいぶ前、私が尿管結石をやって、人生で体験したことのない壮絶な痛みで七転八倒したことを前に書きましたが、→尿管結石の思い出 あんな痛みが延々と続くなら「もう殺してくれ!」と言ったに違いない、と思うのです。そしてなにもしてれなかったら「どうして楽にしてくれないんだ!」と周囲を恨んだことでしょう。

尿管結石であると判明して「石が出れば終わる」と言われたから耐えられましたが、そうでなかったなら無理だったと思います。いっぽうで高齢者が死に瀕する病にかかったらもうあとは死ぬだけなんだから、「どうせ死ぬならはやくラクにして」と考えるのも当然。なぜその願いをきいてあげてはいけないのか。少なくとも医師が「これ以上治療しても治らないし苦しみが長引くだけ」と判断したなら、すみやかでやすらかな死を与えてあげてもそれは犯罪として非難されるべきではないんじゃないか。

 

・・・いずれにしろ葛飾の事件、寛大な判決がくだることを願うばかり。世間知らずの裁判官とデッチアゲ検察官ばかりのなかではなかなか厳しいでしょうが、無罪は難しいとしてもせめて執行猶予判決になってほしい。こういう人を懲役に行かせたところでなんの意味もない。

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