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認知症:入院時の身体拘束

ちょっと前に、読売新聞にこんな記事がありました。

認知症の人が様々な病気やけがの治療で病院に入院した際、ほぼ3割が身体を縛られるなどの拘束を受けていたとする全国調査結果を、東京都医学総合研究所と国立がん研究センターの研究チームがまとめた

引用元→認知症、3割が身体拘束…病気・けがで入院時に

 

要は、認知症である患者が入院したさいに、入院中の事故を防止する目的で

身体をベッドに縛り付けたりする「身体拘束」が行われていることが多く、

そこにはさまざまな問題がある・・・という話。

拘束しなければ危険。しかし拘束しても・・・

認知症の方が入院したりした場合、放っておくと

たとえば点滴のチューブを外しちゃうとか、

触ってはいけない患部をいじってしまうとか、

勝手に歩き回って転倒したりとか・・・

そういったリスクが発生しますね。

 

認知症のある患者さんがたまたまひとりしかいないという状況ならともかく、

いまは認知症の人がどんどん増えているわけで、

そうすると病院側も、認知症のある人だからといって

その人だけをずっと見守るわけにもいかない。

すると、危険を回避するために「身体拘束」が行われる。

点滴のチューブや患部などを触ったりできないようにミトン型の手袋をつけさせたり、

勝手に歩き回れないようにベッドに身体を固定させたり・・・。

 

「安全のため」に身体拘束をするわけですが、

認知症の患者にこれをやると、ストレスや運動不足で認知症がさらに進行する

可能性が高まるらしいのですね。

認知症がない高齢者であっても、入院を機に認知症がはじまる、

というのはよくあること(私の亡父も入院中には恐ろしいほどのせん妄が起こり、このまま正常に戻らなかったらどうしよう・・・と絶望したものです。幸い退院後に元に戻ってくれましたが。)

で、入院というのはそれほどまでにストレスフルなもの。

そのうえさらに身体拘束までされては、認知症がひどくなるのは当然、ともいえます。

 

拘束しなければ安全が守られない。しかし拘束すればますます認知症がすすむかもしれず、

なによりも患者本人の尊厳が守られない。

 

安全を守ることと尊厳を守ること。

病院が優先することが「安全」になるであろうことは、

病院というものがもつ性質、存在理由からいえば当然なのかも。

 

拘束しないで済めばそれにこしたことはないけれども、

そうもいかない事情がたくさんある・・・ということで、

病院にしろ施設にしろ、身体拘束の問題は

私ごときが「こうすればよい」とか言うことは

とてもできない、非常に難しい問題です。

なので今回は、とりあえず私の母が入院したときのことを思い起こし、

そのときに思ったことを書いておくにとどめようと思います。

まだ動きが活発だったころの入院

私の母が認知症になってから入院をしたのは2回。

1回目は、まだふつうに歩けて、勝手にどこかに行ってしまう危険が常にあるので

一瞬たりとも目が離せなかったころ。

意思の疎通はそこそこできていたもののこちらが言ったことは一瞬で忘れるので、

たとえば「~しないでね」という注意などをしてもまったく意味がない・・・というくらいの状態でした。

 

なんで入院したのかというと、

白内障の手術をするためでした。

 

白内障の手術は、ふつうなら局所麻酔で手術時間は20分くらい、日帰りで終わり。

しかし母の場合は、医師の指示通りにじっとしている、ということができなかったため、

全身麻酔で手術をすることになったのです。

 

なにしろ視力検査すらまともにできなかったし、

全身麻酔が大丈夫かどうか調べるための検査でも

「息を吸って~」「息を吐いて~」とかいう指示ですら

まともに対応することができませんでしたから。

「じっとしていて」「動かないでガマンして」という指示も、

もちろん守ることができません。これでは局所麻酔による手術はムリ、ということになったのです。

 

で、全身麻酔で手術は無事に終わりましたが、

手術直後は眼帯をしている状態ですから、

本人が不快に感じればなにをするかわからない。

そこで、安全を守るため、ミトン型の手袋をつけられ、腕と腰は「抑制帯」でベッドに固定され、

「身体拘束」をされたわけです。

もちろん事前に私が「やむをえない場合は安全を守るために身体拘束をしてもいいです」

という同意書みたいなものを書き、承諾していたものの、

実際に拘束された姿は・・・思い出したくないくらい、悲惨なものに感じました。

 

「抑制帯」でネット検索して商品画像などを見てもらえればわかってもらえると思うんですが、

もう写真をみただけで悲しみがわきあがってきます。

目には眼帯で目が見えず、手は動かせず、胴体もがっちり固定され、

しかもなにかを言葉で訴えるということがほとんどできなくなっていましたから、

母は苦しい思いをしただろうな、と。

(こちらでもそのことについて少し書いています→認知症の人の医療

 

まあしかし、このとき私は「しょうがない」とも思っていました。

なにしろ落ち着きがない時期でしたから、

なにをしでかすかまったく予測できない。

安全に治療を終わるためにはやむをえないだろう、と思っていました。

歩けなくなってからの入院

2回目は、「正常圧水頭症」の手術のための入院。こちらも全身麻酔での手術。

(こちらにもそのときのことを書いています→認知症の母:水頭症の手術後

このときは、水頭症の影響か認知症の進行か、

とにかくすでにひとりで歩行するのは困難になっていました。

車いすに座れば自分で立ち上がれないし、ベッドから自力で起き上がることもない。

ベッドの上でモゾモゾしてベッドから落ちそうになる、ということはある、というくらいの状態。

なので、前回の入院時とはだいぶ違った状態であったわけですが、

前回とほとんど同じような身体拘束をされました。

抑制帯で腰をベッドに固定された。

 

まあ、ベッドからの転落はあるかもしれないので、身体拘束をするのもやむをえなかった、のかもしれないけれど、

すでに自分でベッドから起き上がれないくらいの身体能力しかなかったので、

転落防止だけならちょっとした柵だけでもよかったはず。

・・・と、いま思い起こしてみると、

2回目の入院のときの身体拘束は必要なかったのでは・・・と感じますが、

そのときは「しょうがない」と思っていました。

というより、「病院とはそういうもんだ」と思っていた、というほうが正しいか。

その身体拘束はほんとうに必要なのか?をもっと考えることが必要なのかも

家族である私が「施設と違って病院だからしょうがない」と思って身体拘束を認める。

これはある意味で思考停止の状態ですよね。

ベッドに縛られた母がどんな気持ちでいるか、考えなかった。

「自分で動き回ることはほとんどないのに、抑制帯は必要ですか?」と言えばよかったのです。

 

安全確保のため身体拘束、というのは必要なこともあるでしょうが、

懸念されるのは、私が「そういうもんだ」と思考停止してしまったのと同じように、

病院側が「認知症がある患者?じゃあ身体拘束ね」と、

それがほんとうに必要か吟味することなく

自動的にシステマティックに身体拘束を行ってしまうことではないでしょうか。

 

介護施設では身体拘束が原則的に禁止、となっていますが、

病院では現場の判断にゆだねられている現状。

するとやっぱり、認知症患者の家族がするべきことは、

その身体拘束がほんとうに必要なのか、きちんと見て考えることなのでは。

いちばんいけないのは、私がそうだったような「病院にまかせておくしかない」という無責任な態度なんでしょうね。

 

病院には病院の事情がもちろんあるでしょうからそう簡単なことではないでしょう。

しかし、家族が無関心、無責任な態度を見せず訊くべきことは訊き言うべきことは言えば、

病院側もそれを無視するわけにはいきませんから、身体拘束はなるべく減らそう、

という動きももっと活発になっていってくれるのではないでしょうか。

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