ひさしぶりに更新が相撲の話題で怒られるかな。
先日終わった大相撲秋場所。大の里が横綱として初の優勝をかざりましたね。
まあ私は誰が優勝しようがそんなことはどうでもいいと思っていて、いつも言うけどとにかく「男と男が命懸けで闘うところが観たい」というだけなのです。ほんとうにそう感じられる相撲が観られるのならどれだけチケット代が高かろうともたまには国技館へ観に行くと思います。じっさい若貴時代はブラック企業でこき使われながらも年に数回は国技館へ行っていた。
↑最初は小錦に吹っ飛ばされまくりで歯が立たなかったのにだんだん力をつけて真正面から押し出すようになる貴乃花の雄姿は何度見ても勇気をくれる。貴闘力さんによれば「なんで真正面から行くんだよ。出し投げとかやれば簡単に勝てるだろ」とアドバイスしたら貴乃花は「いやそれじゃ意味ないんですよ。それじゃ相撲じゃない」と言ってひたすら真正面から勝負したらしい。それで結局力で勝てるようになったんだからほんとスゴイし、そういう男の中の男の勝負が観られるからこそ忙しいサラリーマンだった私もチケットの発売日には前日夜に国技館へ行って徹夜で並んだ(若貴ブームの時はそうしないとチケット取れなかった。ネット販売とかありませんからね)。
立ち合い変化は徹底的に批判しろ
そう考えると、立ち合いで変化とかする力士を見ると、ましてやそれは横綱大関とかならなおさら、とてつもなくガッカリするというか、はっきりいえば「もうやめちまえよ」と言いたくなるのですよ。
圧倒的格上の相手なんだから立ち合いで横に回ってまわしとって投げを打ったりして勝つ確率を少しでも高めようとするのがふつうなのに「それは俺がめざす勝ち方じゃない」と勝ち方にこだわり、その男気で観客に驚嘆のためいきをつかせた貴乃花のような力士と、格下相手に「とにかく確実に勝ちたい。どんな勝ち方だろうと勝てばそれでいいんだよ」と小細工を弄して横にとんで相手をだまし打ちにして客に落胆のためいきをつかせる横綱、どちらを応援したいか、カネを払いたいか、と言われればそりゃあもう言うまでもないでしょう。
もちろんこれは若隆景戦で横にとんだ豊昇龍へのあてつけで言ってるわけですけど、驚くべきことに豊昇龍の師匠の旭豊は「お客さんには悪いけど勝負ですからね。それに腰を痛めてたし」と言い訳し、横審のおじいちゃんは「総合的な判断でそうしたんだろう」と理解をしめしたそうですよ。
↑これが横綱VS大関候補の相撲か。ゴミだな。さきの貴乃花の動画と同じ格闘技とは思えない。服部桜の相撲のほうが(笑えて楽しいという意味で)まだ見る価値があったんじゃないの。これはエキサイティングでもないし笑えもしない。ひたすらガッカリするだけ。開いた口がふさがらない表情のお客さんいっぱいいますね。豊昇龍や横審のやつらはこの人たちがいくら払ってそこに座ってるか知ってるのか?
いやいやいや、旭豊は勝負うんぬん言う前に「勝負ではあるけれどこれは興行ですからね」というところを考えてみたらどうか。客はお前の弟子が勝とうが負けようが勝負が盛り上がってエキサイティングな気持ちにさせてくれればそんなことはどっちでもいいんだっての。勝負をみせてカネとってるなら「ガッカリな取り組みですみませんでした」と謝るのがスジじゃないのか。それに「腰を痛めてた」とばらすのもどうなのか。豊昇龍は「それ言うとまた情けないとか言われる」と思って黙ってたんじゃないのかな? 旭豊は若い弟子が「昨日の稽古で腰ちょっと痛めたんで今日は休みま~す」と言ったら「そうか、じゃあしょうがないな」と言うんだろうか。どこそこが痛いなんてのは相撲取りにとっては日常じゃないの?
横審のおじいは「総合的な判断」で「勝つためにはそれが最善」と思ったならそれでいいじゃないか、というならそれはすなわち「勝てばなんでもいいんだよ勝てば」と言ってるのと同じじゃないのか。横審の委員長は自民党の政治家だが、さすが自民党としか言いようがない。「どれだけウソつこうが選挙で勝てばそれでいいんだよ」っていうのが自民党ですからね。
「なにをしようが勝てばそれでいい」というのは非常に危険な思想であるということがわからないんだろうか。「なんでもいいから選挙で勝てばいいんだよ」と国民をだまし続ける政治家。「誰が泣こうが自分たちが儲かればいいんだよ」と下請けをいじめ不正で消費者をだましそれがバレれば『不正の撲滅なんて無理ですよ』と居直るどこぞの世界的企業の犯罪的経営者。「冤罪でもいいから犯人を挙げられればそれでいいんだよ」とウソの証拠をでっちあげて人の人生を奪う捜査機関。「捕まらなければカネのためにはなにをしてもいいんだ」と高齢者をだます特殊詐欺集団。社会をダメにしているのはこういう人間たちでしょ。こういう人たちに共通する思考は「勝ち方なんぞなんでもいい。とにかく勝てばそれでいい」ということでしょ。
勝ちたいけれど「これだけはやりたくない」とか「これだけはじぶんの美学が許さない」とかいう哲学がない人間がこういう犯罪をおかす。前出の貴闘力さんは某外国人横綱に「600万円でどうだ」と星を売るよう依頼され、「金額の問題じゃないんだよ」と断ったらしい。しかもまともにやっても高確率で負ける相手で、ふつうなら「どうせ負けるならカネもらったほうがいい」となるところが、じぶんなりの「哲学」にもとづいてそういう判断をしたわけだ。
力士も「勝ちたいのはヤマヤマだが横にとんだりしてお客をガッカリさせるのは嫌だ」という哲学をもっていれば、そんなみっともないことはしないはずだが、横綱というものをただの「チャンピオン」であると思ってて、横綱の責任とは「勝つこと」であると思ってる力士には残念ながらそういうのはないらしい。
尊敬され語り継がれる横綱になるためにはただ勝つだけではダメなはず
これは何度も書いたけど、西岩親方(元関脇若の里)は蹲踞もできないくらいの膝のケガで苦しんでいるときに生涯でただ一度だけの「立ち合い変化」をやって負け、その日その後に飯食いに行ったらそこにいたその日の相撲を見てなかったらしいファンに「あなたの真っ向勝負の相撲が好きなんです」と言われ自分を恥じ「もう絶対立ち合い変化はしない」と誓ったらしい。
西岩親方ほどの男のなかの男でも苦しいときは立ち合い変化しちゃったと考えれば、負けたら取材拒否とかするような、まだまだどうしようもなくガキな豊昇龍が「勝ちたいから」と変化を選んでも仕方がないといえば仕方がないし、たまにはそういう気持ちになることもあるでしょう。しかし、豊昇龍がここからさらに一皮むけてこどもたちのあこがれになるような立派な横綱になるためには、やはり周りの人間は「真っ向からいって勝つところがみたいんだよ!それが相撲ってもんなんだよ!」と言ってあげることが必要なんじゃないか。そしてファンは「横にとんだりしたけど優勝にからんで責任をはたした」とか言ってはいけない。「横綱のくせに真っ向勝負をさけて勝ちを拾いにいって心の底からガッカリしたよ」と言ってあげなくてはいけない。そうしないと彼はいつまでたっても同じことをやってそのたびにファンをガッカリさせ、成績が振るわなければ「やっぱり横綱にふさわしくなかった」とか言われるでしょう。そして若い衆からは「いざというときには逃げる腰抜け横綱」と軽んじられるに違いない。
ほんとうはその役目は師匠や横審が担わなくてはならないはずですけどね、そいつらが「勝負だから」とか「総合的な判断」とか言って擁護するようではもう終わってる。
そもそもいちばん気になるのは、力士が「どうしても勝ちたいとき」の必勝戦術は「立ち合い変化」であるみたいなことを言ってるところ。かつて鶴竜は立ち合い変化してその理由を「どうしても勝ちたかったから」と言ったし、今回の豊昇龍も立ち合い変化した日、報道によれば「今日は勝ちにいきました」と言ったらしい。阿炎なんかもここぞというときには必殺技!とばかりに立ち合い変化しますよね。
いやいやいや、立ち合い変化が最強の必勝戦術なのならお前らなんのために血反吐を吐くような稽古してんの。そんな必要ないだろ。相手が立ち合い変化を予想してるかどうかを見抜く目と、いかに俊敏に相手にわからないように変化するかを研究しとけばそれでいいだろ。
立ち合い変化した力士に「勝つためにはそれがいいと思ったんだろ。ルール違反じゃないんだからそれでいいじゃねえか」と理解をしめすということは、前出の西岩親方のように信念を貫いて真っ向勝負をしている力士たちに失礼というものじゃないのかな。松井秀喜さんが甲子園で5連続敬遠されたとき、国民はみんな相手校に「そこまでして勝ちたいのか」「恥ずかしくないのか」と言ったけれど、横にとんで相手をだまして客をガッカリさせる力士に対してはなぜそういわないのか不思議で仕方がない。松井さんの場合はひとりだけプロ選手が混じってるようなものだから仕方がなかった、という話だったけど、今回の豊昇龍は自分が頂点にたつもの、相手は大関候補とはいえ調子をおとしていた格下。これで真っ向勝負しないとかマジで理解できないし、それを肯定するってのもマジでなに考えてんのとしか言いようがない。
まあこういうこと言うと勝利至上主義に毒された人からは批判されるんでしょうけど、トランプだの兵庫県知事だのを伊東市長だのみたいな「(選挙に)勝てばなにしてもいい」という権力者たちを引き合いに出すまでもなく、「勝てばいいんだよ勝てば」という思想をもつ人たちが世の中をおかしくしているってのはものすごく感じるところで、日本の伝統の武士道を体現するはずの大相撲だけはそういう外国人的勝利至上主義にはそまらないでほしいなあ、と切に願います。そういうこと言ってくれる人が横審の委員長とかになってくれないのかな。