今回はどうでもいい雑談をテキトーに。
三重県桑名市の多度大社で行われている「上げ馬神事」。
若者が馬に乗って急な坂を駆け上がり頂上にある壁を乗り越える、という伝統行事らしい。で、馬を興奮させるために馬を暴行したり、転倒骨折した馬を殺処分したりしてる、というのが「動物愛護」の視点から問題だと批判を受けているという話。
NHK NEWS WEB “炎上”の「上げ馬神事」 伝統か虐待か 広がる波紋
ふ~ん。私は「上げ馬神事」についてなにも知りませんでしたが、上に貼った記事の内容だけをみると、たしかに「ひでえ話だ」という気にもなるし、そう感じる人が大半でしょう。
しかし、日本には天下の農林水産省が大元締めとして大々的にやっている「競馬」というのがあって、そこでも馬を速く走らせるためにムチでひっぱたき、転倒骨折した馬も「安楽死」として薬殺されるということが行われている。しかもそれが全国津々浦々で一年中開催されている。年に1回やるだけの上げ馬神事とはけた違いの規模なだけに、犠牲になる馬の数も圧倒的に多いはず。
「動物愛護」をさけんで上げ馬神事を批判する人たちは「競馬」についてはなにも言わないんだろうか。馬を使う神事が動物虐待なら競馬もそうだろ・・・というのは誰でも考えると思うんですが、それを言うと「競馬はあんな残虐なことして馬に強制しない」とか「ムチの使用回数は制限されているしちゃんと気をつかっている」とかいう意見が出るようですね。。
いやいやいや、同じでしょ。競馬だってゲートに入りたがらず暴れる馬をむりやりゲートに突っ込んで走らせたりしているじゃないか。ムチなんかは回数の問題じゃないでしょう。レースに出ればそのたんびにひっぱたくんだから。日常的に暴行してると言ってもいいはず。
それに、そこらへんから拾ってきた馬を好きなように勝手に走らせて着順を当てるゲームならまだしも、より速く走れる馬を!と人間の都合で不自然な品種改良をくりかえし、生まれた馬には過酷なトレーニングを施して能力の極限に挑ませるんだから、馬の命をもてあそんでると言われて文句言えないはず。そして速く走れない馬は用なしとなり大部分は最終的には処分されるという悲劇をむかえることになる。
上げ馬神事で数頭の馬が殺処分にされるのを大騒ぎするなら、どう考えても競馬のほうが大問題。それに、その「かわいそうな」馬たちがなんのために走らされているかというと、それが馬術みたいな競技のためならともかく、国民が忌み嫌う「ギャンブル」のためですよ。そこを考えると、吐き気がしてくるくらいおぞましいという気が(動物愛護というなら)してこないか。
馬を動物愛護の対象とするなら、これほどインモラルなギャンブルは他にない
先日BS放送で、カーク・ダグラス主演の映画「スパルタカス」(1960年。古代ローマで奴隷反乱を指揮した剣闘士スパルタカスが主人公)を久しぶりに見まして、
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古いだけに今の感覚だと突っ込みどころは多いものの面白い映画なので若い人にもぜひ観ていただきたい、というのはともかく、この映画のなかに、剣闘士のスパルタカスが当時のローマの実力者クラッススとその友人たちの娯楽のために真剣試合、つまりどちらかが死ぬまでの試合をやらされるシーンがあります。
鼻持ちならない貴族が奴隷の殺し合いをワイン飲みながらキャッキャ言って楽しむ姿をみて、胸がムカムカするような嫌悪感を覚えない人は現代の日本にはあまりいないだろうと思うんですけど、考えてみると競馬もこれと同じようなもんだよなあ~と。
もちろん競走馬は負けたからといってその場で死ななければならないということはないけれども、延々と勝てない馬は「用なし」として処分されるわけで、その意味では自分の運命をかけて走らされていると言えるから剣闘士と同じようなもの。そしてムチ打たれながら走らされる競走馬たちを大勢の人間が自分のカネのためにキャッキャ言いながらみつめる、というのも剣闘士試合とほとんど同じじゃないか。
映画のなかで描かれていたようにローマの剣闘士は優秀であれば剣闘士の教官になったりして自由の身になれたこともあったらしいけれども、競馬の場合はレースの成績が優秀だったとしてもまだ続きがある。種牡馬も繁殖牝馬も関係者のカネのために過酷な子孫つくりを強制させられる。それも用済みになったら手厚く余生の面倒を見てもらえることもあるらしいけれども、そこまでになる確率は数千分の1とかでしょ。ローマの剣闘士となにもかわらない。
馬を「家畜」「産業動物」ととらえていなければ、競馬なんてとても見ていられるものじゃないでしょう。そのおぞましさは上げ馬神事とは比較にならない。馬を育てる人も馬を持つ人も馬に乗る人もそれを見る人も、ほぼすべての人が自分のカネと名誉のためという動機でそこに関わっている。上げ馬神事を批判する人は馬を「愛玩動物」「コンパニオンアニマル」と思っているからこそ「馬がかわいそう」って言うんだろうから、ならばやっぱり神事を「虐待」と言ういっぽうで競馬はスルーするのはおかしいとしか言いようがない。
パチンコ・パチスロやカジノゲームをインモラルなギャンブルとして嫌う向きは多いけれども、馬の命をもって賭けの対象とする競馬のほうがよほどインモラル。しかも、ぱちんこなら1日で動かせるカネはせいぜい10万円前後なのに対し、競馬の場合は千万もしくは億単位を賭けることも可能で、射幸性の高さという点でも桁違い。動物愛護をさけぶ人たちは「競輪や競艇やオートレースがあれば十分じゃないか!競馬はやめろ!」と大騒ぎするべきでしょう。
馬は家畜と考えれば競馬も違和感なく楽しめるが・・・あまりにボッタクリすぎてやる気にならない
と、競馬についてものすごくインモラルだと批判しましたが、私自身はべつに競馬に対してそこまでネガティヴな感情はもっていません。馬は牛や豚と同じと思えば馬がひっぱたかれようが遅い馬が肉になろうがとくになにも感じない。でも、馬券を買おうとか思わないし、「血のロマン」とか言われるとなんか嫌悪感をおぼえるし、ギャンブルであることを徹底的に覆い隠すテレビCMなどをみると吐き気がしてくる。
競馬というギャンブルが「勝てる」ものであるなら向き合い方がもっと変わってくると思いますけどね、馬というなにを考えるかわからない獣を走らせるというゲームなうえ、天候なんかにも左右されまくるという不確定要素が満載、しかもそもそも還元率が70%台という圧倒的なボッタクリシステムで「勝てる」と考えるほうがどうかしてる。じっさい勝ってる人もいるらしいですが、それはもう神の領域でしょう。少なくとも片手間でそこまで行けることはまずありえないと考えるべき。なにか他人が知らない情報や必勝術をもっていないかぎり、出玉率70%のパチスロで勝てるとは考えませんよね。
そういう意味で「競馬やるくらいならぱちんこやれ!」と私は言いたい。ぱちんこは競馬のように獣の機嫌や騎手の調子や馬場状態や天候や対戦相手の顔ぶれなど不安定なものに左右されない。同じ状況下ならいつなんどきも同じ抽選をする機械が相手です。頼るのは己の立ち回りとヒキだけ。
ともかく、競馬という純然たるギャンブル産業が「ロマン」などといって異様に美化されて語られ、マスコミには「スポーツ」として取り扱われるのに対し、競馬と比較すれば圧倒的に良心的なギャンブルであるパチンコ・パチスロが「社会に不要」などと徹底的に疎外されるのが悲しい。競馬が動物虐待であるかどうかは個人の価値観に左右される問題だとしても、少なくとも痛みも苦しみも感じる生き物である馬に過酷な運命を背負わせてそこにおカネを賭ける競馬と、機械に向き合ってわずかなカネを賭けるぱちんこ、どちらが健全かはどう考えても明らかだと思うんだけど。
と、思ったことを適当に書き連ねただけになりましたが、言いたかったのは「滅ぼすべきギャンブルはぱちんこではなく競馬だろ」ということと、競馬よりもぱちんこのほうが安心安全でカンタンなんだから、競馬なんぞには見切りをつけてもっとぱちんこ打ちましょうよ・・ということ。競馬とは、おカネがいくらでもあって宝くじ感覚で馬券を買い、馬が走るのをみるのが楽しい、という人だけが興じるべき、基本的に勝てないギャンブル、と認識しておいたほうがいいと思っています。
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