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大相撲:大関貴景勝が4度目の幕内最高優勝。「番付の重みを示した」か?

しばらくぶりの更新となり、わざわざ見に来てくださっている読者の方々にはお詫び申し上げます。

久々の記事がぱちんこに関係ない内容ではたぶん怒られると思うんですけど、今回は大相撲の話。興味のない方はスルーしてください。

 

私がかねがね「余計なことは言わない」というじつに力士らしい姿勢が好きで応援していた大関貴景勝が、先日の9月場所で幕内最高優勝、成績は11勝4敗。

応援していた力士が優勝したんだから「おめでとう!」「よくやった!」と言うんだろうと思われるでしょうがさにあらず。応援していたからこそ、今回の優勝には「あのさあ・・・」という文句をたれておきたいし、全国のまともな相撲ファンにも「あのさあ・・」と言ってほしい。

圧倒的格下の熱海富士に、立ち合いまともに受けず変化

千秋楽を終わって、大関貴景勝と11勝4敗で並んだのが21歳の新鋭・熱海富士。まだ入門から3年、スピード出世で駆け上がってきた期待の若手!

ここで貴景勝はまさかの行動に。立ち合いではきちんと手をついて待っている熱海富士に対して、タイミングをずらしてやろうという気が満々のフェイントをかけてみたり、そのあげくにまるっきり手をつかずに立って(なんで手つき不十分で行事は止めないの?)、そのうえまともに受けずヒラッと変化。はたき込んで勝利。

いやいやいや、前のほうのお客さん喜んで拍手してる人もいるけど、15日間のクライマックスにこんな相撲見せられて、よく怒らないよね。テレビに映るような席なら万単位のカネを払ってると思うんだけど。私なら「貴景勝帰れ!」って座布団投げますね。じっさい拍手なんかせず「あれえ~」ってカオの人もけっこういましたね。それが正常な反応でしょう。

こういうこすっからい相撲は過去のモンゴル人横綱たちや阿炎みたいな奴とかの専売特許で、貴景勝はそんなことしない・・と思っていたんですけどねえ、どうやらそうではなくなったらしい。貴景勝は「とにかく勝たなくてはならないから」とぬかしていて、たしか横綱鶴竜も立ち合い変化の理由をきかれて「どうしても勝ちたかったから」と信じがたいことを言ったけれど、つまりこいつら力士は「絶対に負けられないときは立ち合い変化がいちばん」と思っているってことなんだな。ふつうのまともな人は「絶対に負けられない」となればいかにしてそこで全力を振り絞るか、を考えるんじゃないのか。

「変化」が最強の技だと思ってるなら稽古なんぞしなくていいだろ。いかに相手に気取られず横に跳べるかだけを練習しとけばいいじゃないか。かつて白鵬は「みなさんもっと相撲を勉強してください」という妄言を吐いたけれども、相撲ってな「相手の不意をついて跳ぶのが最強」なんていう底の浅いものなのか? そんなもんを「勉強しろ」だと?・・・と言われても仕方がないのでは。

 

貴景勝はかつて「勝って驕らず。負けて腐らず。いちいち精神を上下させない力士になりたい」と言っていて、素晴らしい心がけだ、と私も感服したものですが、

貴乃花部屋の貴景勝が新三役に!「勝って驕らず、負けて腐らず。」という言葉について考えてみる

どうやら彼はまだまだその境地には達していないらしい。「どうしても負けるわけにはいかない」と思って、おそらく本意ではない(と思いたい)立ち合い変化という作戦を選ぶということ自体、「精神が上下」してるってことなんじゃないの。

一時の気の迷いであることを祈りたいが、「どうしても負けるわけにはいかない、だから変化」ってのはかつての八百長モンゴル人横綱たちと同じ思考じゃないですかね。ここまでガチを貫いて頑張ってきて、まともな相撲ファンもそれを知ってて応援してくれていたのに、今回の相撲イッパツでそれをすべてぶち壊した感があります。

「番付の重み」「大関の体面」ってなに?

読売新聞によると貴景勝は翌日、「横綱が休場していたので、大相撲の歴史のなかで番付の重みを示してきた先輩に泥をぬることは避けたかった」と語ったそうですよ。つまり「優勝してな番付の重みを示すことができた」という認識らしい。

 

いやいやいやそうじゃないでしょ。番付の話をするなら、熱海富士は幕内のケツッペタ、そしてアンタはいちばん上だぞ。いちばん上の番付の人間が、幕内のケツッペタのペーペーと対戦して、まともに勝負せず逃げた(ようにしか見えないことをした)。その時点で「番付の重み」なんぞ吹っ飛んだでしょ。背負っている「番付の重み」が圧倒的に違うんだから、勝つのは当たり前の話であり、「勝ってよかった~」とか喜んでる時点で言ってることが矛盾している。

これが逆ならいいんですよ。熱海富士が変化して勝ったのなら「俺の変化が大関に通用した!勝ててよかった!」でいい。「番付の重み」が違うんだから、「まともにやったら絶対に負ける」相手に対して、「どんな手をつかっても勝ってやろう」と考えるのは当たり前。

 

貴景勝の母校の埼玉栄高の相撲部では、たとえば中学時代ちょっと強かった奴が1年生で入ってきて、その挑戦を最強3年生が受けるというとき、3年生が「負けると体面が保てないから」と立ち合い変化して勝ったとしたら、監督は「よくやった。意地をみせたな!」と褒めるんだろうか。いや、「バカ野郎」って怒るのでは?

それに変化で後輩に勝ったとしても、後輩からは「なんだあの野郎先輩づらしてるけどたいしたことねえな」と思われて、逆に体面もへったくれもない状況になるんじゃないか。勝ったからといって先輩の「重み」を示せるとはかぎらない、「体面」を保てるとはかぎらないのです。

じっさい熱海富士はじめほかの若い力士も「大関とかぬかしたところで大事なところでは逃げるんだろ。たいしたことねえ」と思ったかもしれない、ていうか思うでしょ。それでどこが「番付の重み」を示したことになるんですかね。逆に「大関の名を汚した」と批判されるべきでしょ。

「番付の重み」というなら、相手が幕内のケツッペタのペーペーであるなら、「俺は大関。受け止めて吹っ飛ばしてやって、格の違いを見せつけてやらないとカッコウがつかない」と考えるのが普通じゃないか? なんで「番付の重みがある!なにがなんでも勝たないと!そのためにはどんなこすっからいことでもやらないと!」ってなるのかが不思議。それこそ「番付の重み」というものを理解してないってことにならないか?

もちろんまともにやって力負けしたらそれこそたいへんなことになるでしょうが、そのリスクを背負わなきゃならないってのが「番付の重み」というものじゃないのか。考えることがまるっきり逆だろ。「番付の重みを示すためにどんなことをしても勝たなくては」じゃないでしょ。勝つのは当たり前なんだから。正々堂々と相手の力を受け止めてそれを吹っ飛ばす、あの場面で「番付の重み」を示すためにはそれしかなかったはずでは。

そういう思考に至らないのが「勝利至上主義」に毒された人間というものなんでしょう。とにかく勝てばいい、勝ってこそ面目が保たれる。私は貴景勝のことを、そういう安直な勝利至上主義には染まらない、ほかの力士とは一線を画す稀有な力士だと思っていたし、だからこそ応援していましたが、残念ながらそうではなくなってしまったらしい。悲しいことです。

大相撲:大関貴景勝が綱とりへ。しかし・・・

 

とはいうものの、今回の貴景勝や平成のモンゴル横綱たちのように、力士が「勝つことが品格」「勝ってこそ体面を保てる」「なにがなんでも勝てばいい」という勝利至上主義的思考に陥ってしまうのは、彼らだけが悪いのではない。それは結局のところ、勝ち星の数だけをみてなんだかんだ言うマスコミや横審やファンのせい。どれだけ素晴らしい相撲内容でも勝たなきゃあ評価されないし、横に跳ぼうがエルボーしようが勝てば評価されるんなら、そりゃあ「勝てばいいんだろ勝てば」となるのは当たり前なのです。

横審の委員長は信じがたいことに、卑怯な取り口などは不問に付したうえで、「優勝した事実が大事」などとぬかしていてあまりの低レベルに茫然としちゃった。それはつまり「勝てばいいんだよ勝てば」って言ってるのと同じでしょ。横審がこんなだから白鵬みたいな「どんな手を使っても勝てばいい。それが責任」と勘違いする野郎が生まれてしまった。貴景勝はそうはならない、と思っていたのに・・・。

「手放しで喜べない11勝V」。ほんとうにそうか?

読売新聞は、「11勝4敗」という優勝成績は過去三例しかない最低の成績、などと問題視していました。くだらん内容なのにネットでは会員限定記事なのね。

読売新聞オンライン[秋場所御免]手放しで喜べない11勝V

 

かつては横審の委員も「横綱たるものせいぜい2敗、悪くても3敗」とかいう妄言を吐いていたことがあって、あまりのバカっぷりに倒れそうになった覚えがありますが、こういう奴らが八百長力士や「負けられない」ときに横に跳ぶ力士を生むことになり、相撲がつまらない原因となっているのです。

いやいやいや、優勝力士の勝ち星が少なくなってきているのは、どう考えても「ガチでやる力士が増えた」からでしょ。八百長できないように協会がいろいろやった結果で、これは喜ばしいことじゃないか。「星のつぶし合い」のなにがいけないの?

「突き抜ける存在」がいない?それのなにが問題?それにいままでの「突き抜ける存在」のほとんどが星の売り買いでそれを実現してたってのは残念ながら多くの国民が知るところになっているわけで、そんな存在こそが相撲をつまらなくしてたんだろ。八百長横綱が安全相撲で勝ち星を重ねるところなんぞ見て面白いか? 「星のつぶし合い」で、誰が優勝するか最後までわからない、っていうほうがよほどエキサイティングじゃないか。

 

それに「11勝4敗」ってのはほんとうにそんなに悪い数字なのか。勝率73.3%だぞ。あの平成の最強横綱・貴乃花でさえ通算勝率は75.2%で、それとほとんど同じなんだけど。

11勝4敗を6場所やったら66勝24敗。これは平成の八百長モンゴル横綱が幅を利かせていた時代を除けば、年間最多勝レベルの勝ち星の数ですよ。それでも「低レベル」とか言っちゃうっていうのは、とどのつまりいま目の前にある15日間の成績にしか目がいってないから。横審や協会やマスコミやファンがみんなそういう近視眼的思考で15日間の成績だけをとらえてなんだかんだ言うから相撲はつまらなくなったのです。

マスコミや横審やファンが「横綱たるものせいぜい2敗」とか言うから、それを実現しなきゃならないと思った八百長横綱が星の売り買いをしまくった。それを見て「さすが横綱。これぞ横綱。横綱はこうでなくては。優勝力士はこれくらいの勝ち星でなければ」となり、いつのまにか1敗とか2敗とかが優勝力士にもとめられるラインになってしまった。

だから横綱は序盤にちょっと負けるとすぐに休場するようになったし、「勝てばいいんだ」と言われるからどんな卑怯な手も使うようになった。これは全部、協会の幹部や横審やマスコミやファンが勝ち星の数だけでギャアギャア言うからですね。

 

前述のように11勝4敗は決して低レベルではないし、もっといえば9勝だろうが10勝だろうがそんなことどうでもいいのですよ。読売の記事はまるっきり「11勝」っていう数字だけを問題にしていて見当違いも甚だしい。内容を問題にしろよ内容を。誰がみても八百長っていう相撲や立ち合い変化ばっかりの相撲で15勝全勝と、徹底的に真正面からガチを貫いての11勝、どっちのほうが客が感動するか。子どもたちに「ああいうカッコいい男になりたい!」と思わせるか。言うまでもないでしょ。しかし横審だのは前者の15勝のほうが価値があるって言っちゃうわけだ。いい年こいてなんて恥ずかしい。お偉方がこんなでは貴景勝だって変わってしまうのも無理はない。

 

と、貴景勝がフツーの「勝てばそれでいいんだ」という力士になってしまったのを批判しましたが、願わくばこれがただの気の迷いで、来場所から考え直してくれることを祈りたい。そして角界が、勝利至上主義に染まらないホンモノの「力士」こそが評価されるような世界に変わってほしいものです。

しかし番付で実入りも待遇も決まるシステムですからねえ、なかなかそこは難しいのかもしれませんが、我々ファンがどこをどう見て評価するか、っていうところは、我々が賢くなれば変えることはできるでしょう。

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