高齢者の交通事故についての記事
を書いたところ、この過疎ブログにも多くの方が見に来てくれました。
で、高齢ドライバーの事故が増えている、という、高齢者の運転は危ないという印象を与えるための恣意的な報道をするのは、自動運転車を普及させる布石なのでは?、というコメントをいただいたので、自動運転車について思うところを書いてみます。
まあ私は自動車の技術にもIT分野にも道路行政にも素人ですから、的外れと言われるかもしれませんが・・一般消費者はみんな素人なわけですからね。そういう立場で意見を言うのも無意味ではないかなと。
オートマ車ですら怖い
私は運転免許を取得してから25年ほどで、所有した車は3台しかないんですが、すべてマニュアルトランスミッションの車。オートマチック車は所有したことがありません。
なぜオートマ車に乗らないか。
それは、怖いからです。
ジェットコースターに乗っているような感覚に陥るんですよね。自分の意思で操作している感じがしない。車が勝手に走っているような。それに、動きが少ないので居眠りしそうなんですよね。居眠りして追突事故とかやりそうな気がしてしょうがない。
ブレーキから足を離すと勝手に動くとか、ほんとうに怖い。それに、最新のオートマ車は違うのかもしれないですが車検の代車などでオートマ車にたまに乗るとものすごく制動距離が長く感じたりします。
で、自動運転。いったいどこまでのレベルで「自動」を目指しているのか知りませんが、ドライバーがなにもせずとも運転可能な「自動」を目標にしているんだとすれば、はっきりいって「そんなもん怖くて乗れるか!」というのが正直なところです。
最先端のはずのパソコンですら、誤作動、フリーズ。そんなのばっかりなのに
ブログ作成とせどりの仕事のためにパソコンを所有していますが、すぐおかしな動作をしたり、いきなりフリーズしたりするのです。
そのたんびに「使えねえなあ!」と思うわけです。パソコンと一緒にすんな、と言われるでしょうが、私にはデジタル機器はすべてにおいて「案外使えない」「すぐ不具合が起こる」「不具合が起こったら復旧が困難」というイメージしかないんですよ。
「それは使う人間の問題では・・」と指摘する人もいるでしょう。たしかに私の場合、デジタル機器のことがよくわかってないからトラブルシューティングやトラブルの予防ができないという面はあります。でも、同じように「なんだかよくわかんないけど勝手に走る車」を使って、なんだかわかんないうちに誤作動されたらとてつもなく怖い、と思うのです。
パソコンの誤作動のように、自分の意思に反した走り、暴走をされて、それを制御したいけど仕組みがさっぱりわからないから制御する方法もわからない、ということがもし起こったら・・・。事の重大さはパソコンの比ではない。
「自動運転のほうがかえって難しい」?
興味深いニュース記事を見つけました。
→本当は怖い? 初の死亡事故が起きたクルマの自動運転、意識改革必要か
記者は実際に、テスラの「モデルS」という自動運転車に乗ったときのことを書いていますが、興味深かった、というかやっぱりそうですかと思ったのは
「自分で運転するよりはるかに高い集中力を要しました。」
「ドライバーは「自動運転のほうがかえって難しい」という事実を理解する必要があります。」
という部分。
要は、テスラの「モデルS」の自動運転モードの場合、「ドライバー自身が最後のセーフティネット」として機能しなくてはならない。それをやるのが、普通の車を運転するよりも難しい、ということのようです。
そりゃあそうでしょうね。旅客機にも自動操縦があるらしいですがだからといってど素人が機長をできるわけではない。旅客機の仕組みと自動操縦のメカニズムに精通しなければ機長はできないわけでしょう。
自動運転車に「予測」「~かもしれないと考える」能力はあるのか
先に紹介した記事でも、道路の白線が薄いとどうのこうのと言っていますが、実際の道路上では無数の不確定要素が押し寄せる中で運転しなくてならない。
コンピューターはそのセンサーでみえる、感じるものにはすごいスピードと精度で反応するでしょうが、「見通しが悪いから減速しなきゃいけない」とか、「横断歩道に人がいれば止まらなければならないが、いなければ通過していい」とか、「子供が飛び出してくるかもしれない危険なゾーンだから減速しよう」とか、右折のときに対向車に譲られたが対向車の陰から自転車やバイクが出てくるかもしれない、とか、考え予測しながら運転することはできるのか。
さらに、まわりの車が人間の運転する車なら、「こういう状況なら人間ならこう判断してこう行動するだろう」という予測・判断をコンピューターはやらなければならない。
そんなことできますかね。
道路上の車すべてが自動運転車で、すべての道路が自動運転車用に整備され、歩行者も自転車も存在しなければ、予測する、考える能力は必要ないでしょう。
しかしそれは(自動車メーカー、そしてスポンサーである自動車メーカーに逆らえないマスコミは絶対に認めないでしょうが)技術的なこと以外の問題もあるわけで、不可能でしょう。
自動運転でも、「事故はドライバーの責任」というメーカー
私はドライバーが介在しない自動運転は実現しないと思ってます。
結局、先の記事のテスラの車のようにドライバーがつねに目を光らせながら運転する必要のある車しかできないでしょう。
だって、自動車メーカーはこう言っているらしいですよ。
事故が起きたときの責任の所在について、
「運転者の責任を定めた道路交通法に則り、事故の際にはドライバーが責任を持つ枠組みで開発を進める」(トヨタ)
(引用元記事→ 自動運転車にいまだ山積する課題 業界はネガティブな情報に触れない風潮?)
パーフェクトに自動運転なら事故が起こったならメーカーの責任は免れないわけで、それを回避するためには、「最終的にはドライバーの責任」と言えるだけの余地を残さなくてはならないでしょう。そうなれば、「コンピューターがうまくできなそうなときはドライバーが補完する」という形にならざるをえない。(高齢者の運転が危ないから自動運転を、といいますが、コンピューターのできない部分を補完するなんて難しいことが高齢者にできるでしょうか?)
ドライバーが不要になるレベルの自動運転を実用化する、といいつつ事故の責任はドライバーに、という大いなる矛盾に対して、バカじゃねえの?と言う人が存在せず、自動運転で明るい未来、みたいなことをマスコミが喧伝しているのが気持ち悪い。実用化には問題が多すぎる、ということをもっと言うべきだ。
だいたい、技術はいくらでも進歩するかもしれないが、技術だけでは自動運転社会の実現は不可能です。道路の整備だの事故の場合の責任の問題だの、技術以外の解決困難な課題が多すぎる。そのあたりのことをマスコミはあんまり言わないようにして、高齢者の事故が多いから自動運転が必要、と宣伝している。
不注意による事故は減るかもしれないが
自動運転が普及すれば、アクセルとブレーキを間違えた、という種類の事故はおそらく減るでしょう。
しかし、コンピューターは計算や作業がすさまじく多く速くできるというだけで、ある意味では人間よりバカですから、そこに起因する思いもよらない事故が起こるでしょう。私も含め多くの人はそこに不安を感じるのではないでしょうか。
とにかく、自分で事故って死ぬんなら自分の責任で死にたいし、事故で殺されるのもヒューマンエラーで殺されるほうが、機械にやられるよりは「しょうがない」と思える気がします。
米フォードは2020年までに「ハンドルもブレーキも運転手も必要ないクルマ」を量産するとぶち上げているそうです。いわゆる「レベル4」の自動運転車ですね。そういう車があれば助かる方も多くいらっしゃるでしょうが、いろいろ書いてきたように問題は山積してるので、そんな車が公道で走るのは数十年後でしょう。工場とかで使うんだったらアリかもしれないですけど。
私は、人間が運転するんだけどヒューマンエラーを完璧に防ぐ車、ができてくれればいい、というかそれで十分だしそれ以上は必要ないと思ってます。
まあしかし、田舎に住んでいる者としての視点で言うと、自動運転車の開発などよりも、高齢者や身障者が車を運転しなくても済むように公共交通機関の充実におカネを使ってほしいというのが願いです。